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梟訳今鏡(3) すべらぎの上 第一 初春、星合ひ

初春

次の天皇は後朱雀ごすざく天皇と申します。一条院の第三の皇子で、御母君は上東門院彰子じょうとうもんいんしょうし様です。なので、先帝(後一条)と同腹のご兄弟でいらっしゃるんですよ。

この天皇は寛弘6年11月25日にお産まれになりました。
それから寛弘7年1月16日に親王宣下され、寛仁元年8月9日、御年9歳で東宮にお立ちになられました。
そして長元9年4月12日御年28歳で帝位につかれました。

さて、ご即位の儀式や大嘗会だいじょうえなども終わり、年も変わって長元10年。早くも1月7日に関白左大臣頼通よりみち様が女御として嫄子げんし様を入内じゅだいさせられました。

嫄子様は天皇の御兄君でいらっしゃる式部卿宮しきぶきょうのみや様(敦康あつやす親王)の次女でいらっしゃいまして、村上院の皇子中務宮なかつかさのみや(具平ともひら親王)の御娘君の所生なのですが、それを頼通様が義妹の縁で養子になさって入内させた、というわけですよ。

そうそう、この故式部卿宮様は一条院の皇后宮定子ていし様の第一の皇子でいらっしゃったので、もちろん東宮に立つ資格がおありではあったのですが、強力なご後見がいらっしゃらなかったんです。
そのため道長みちなが様の御孫であり、関白頼通様の御甥でもある第二の皇子の先帝(後一条)、第三の皇子の後朱雀天皇が兄弟で連続して帝位におつきになったんです。

ああそうだ、その定子様なんですけど、その御兄君、伊周これちか様が例の不敬事件で筑紫つくしの方へ流刑るけいになってしまわれたことなどを嘆かれてご出家なさいましたが、その後のことなんですよ、この式部卿宮をお産みになられたのは。
これって唐国の、かの則天武后そくてんぶこうがご出家後に王子をお産みになられたような感じですよね。
そういえばこの則天武后は前皇帝太宗たいそうの女御で、太宗がお隠れになったためにご出家なさり、感業寺かんぎょうじというお寺にこもっておられたんですよ。ですが前皇帝の御子高宗こうそうが帝位について、そのお寺にいらっしゃった際、その則天武后のお姿をご覧になって思いを寄せられたのでしょうね、その後則天武后は再び后としてお立ちになったんですよ。

あら?そうなると定子様は則天武后と違ってずっと同じ天皇の后でしたから、いたって変わったところもなく、ありふれたご様子だったということになってしまいますね。
……いやですねぇ、つい憚りもなく高貴な御夫婦の話をしてしまいました。
恐れ多い、恐れ多い。

その定子様の女房にょうぼう肥後守元輔ひごのかみもとすけと申す者の娘である清少納言せいしょうなごんという方がおりましてね、これがまことに風流な方でしたよ。私はこの方の元へよく通うなどして、定子様のことについても色々とうかがっていたんです。
嫄子様はそんな定子様の皇子である式部卿宮(敦康親王)の御娘君でいらっしゃるわけですから、天皇にとって姪にあたられるんですよ。

そんな嫄子様は長元10年3月1日、御年22歳にして女御から中宮にお立ちになられました。天皇には元々東宮時代から御息所みやすどころとして参られていた后の禎子ていし様がいらっしゃったので、その方は皇后宮におなりになられました。
この禎子様は三条院の皇女でして、この時御年25歳でいらっしゃいましたよ。
陽明門院ようめいもんいんと申しますのはこの禎子様のことなんです。

そういえばその御髪を、父君であられた故院(三条)が「お前の美しい御髪を見られないのが残念でならないよ」と仰せられ、手で触って愛でられた、なんて話がありましたねぇ。
故院(三条)の心情がしみじみと推し量られますよ。
こういう話も残っているほどですから、同じ皇后とは申しましても、禎子様は格別に高貴でいらっしゃるんです。

そうそう、禎子様が久しく内裏へ参られなかった頃、天皇から

あやめ草 かけしたもとのねを絶えて
                 さらに恋路こひぢに惑ふ頃かな

という御歌がおくられたとか。
その御返歌は忘れてしまいましたけれど。

この天皇がまだ東宮でいらっしゃった時の御息所として、最初に参られたのは道長様の六女である尚侍嬉子ないしのかみきし様でした。
この方はのちの後冷泉天皇……この後朱雀天皇の御世では東宮についていらっしゃった方をお産みして、すぐにお隠れになってしまわれましたから、そのあとにこの禎子様が御息所となられたんですよ。

そういえば嬉子様の元にも、天皇は「……かすみのうちに 思ふ心を」という御歌をおくられたと聞いていたのですがねぇ……。本当、早くにお隠れになられたのが残念でなりません。

さて、長暦元年10月23日に、頼通様の造営された高陽院かやのいんへ彰子様がお渡りになられ、また、天皇の行幸ぎょうこうもございました。
そこで公達きんだち院庁いんのちょうの職員達への加階かかいが行われました。

こうして年も明けて長暦2年1月2日、彰子様の御所へ朝覲行幸ちょうきんぎょうこうがありました。
毎度のことではございますけど、やはりこの御所の景色は素晴らしくて、築山つきやまから吹き下る強い風はこの御世を祝福する声を届けてくれるような感じで、池の水も澄み渡り、1000年の長寿を祈る松の影を映していて、ただもうこの天皇の行幸をお待ちしているようでしたよ。

それにしても、先帝は崩御されてしまわれたとはいえ、このように2代連続で国母こくもであらせられた彰子様はもうこの上なく尊くていらっしゃいますよね。

また、天皇の朝覲行幸の翌日には東宮が朝覲行啓ぎょうけいということで内裏の方へ参られましたよ。
決して天皇の行幸より大げさな感じではないんですが、それでも衛門府えもんふ次官じかんじょう近衛府このえふ将監しょうかんなどから選ばれた者たちを引き連れているご様子は際立っていて、華やかな感じがしましたよ。
また、その時の天皇の御装束や、皇子でいらっしゃる東宮の御袖おそでの色なども変わっていて目新しく、御拝ごはいの際などにその御袖を振られるのを見るにつけて、立ち居ふるまいの見事さに喜びの涙を抑えがたいほどでありました。

それから連なる公卿たちの紫色のほう、また、その下にも各々の位階に従って身につけられた朱色や緑色の袍が連なっていたのも、晴れ晴れとした宮中の春を感じられるようでした。


星合ひ

中宮嫄子げんし様は長暦元年から早くもご懐妊でいらっしゃいまして、11月13日には左大臣頼通よりみち様の邸宅である高倉殿たかくらどのに下っておられました。

それから翌年長暦2年4月1日、皇女(裕子ゆうし)をお産みになられました。
また、嫄子様はその翌年長暦3年も再び同じように高倉殿へお下りになり、丹波守行任たんばのかみゆきとうさんの家を産屋うぶやとして8月19日、またもや皇女(禖子ばいし)をお産みになられ、そしてその月の28日に、御年24歳にして亡くなられてしまいました。

急なことでびっくりしてしまいましたし、また、それに秋のわびしさも相まって、悲しさで胸が締め付けられることこの上もありませんでした。
有明の月の光も悲しげな色をしているようで、夕暮れの草木についた露が多いのでさえ涙を誘うようでした。

そして同年9月9日、天皇は故中宮嫄子様のために、奈良の七大寺へ|御誦経をするようお命じになられました。
その時には天皇も御喪服を着用され、廃朝はいちょうといって、清涼殿せいりょうでんの御簾をみんな下ろしてしまわれました。
お昼のお食事が運ばれてくる時も、お食事の到着を声を上げて伝えさせることもなさらず、まるで宮中全体のなにもかもがどんよりと沈んだ雰囲気でしたよ。

その時の天皇は夕暮れに飛ぶ蛍でさえ、まるで嫄子様の霊魂が訪れたかのように思われてしみじみと感傷に浸られたり、秋の夜長に灯りをつけたまま、それが消えてしまうまでずっと眠れないままでいらっしゃったりと、お辛い時期でいらっしゃいました。
それから、その月の20日に解陣げじんだといって全て元通りになさいまして、御殿の御簾なども全て巻き上げられました。
これで少しばかり宮中の雰囲気が晴れたように思われましたが、やはり天皇のご様子はまだ悲しみの尽きないような感じでしたよ。

さて、天皇の心喪しんそうは3ヶ月ですから、10月過ぎ頃には御忌中もほとんど終わりに近づいて、嫄子様のご家族方で御法要がありました。梢の色も、風の様子も、その悲しみを理解するかのようでした。そして、紅葉が掃かれないままになっていた御殿の階段も、法要に使うからということできれいにされていくのを見ても、とにかくなにかにつけて悲しみは絶えることがありませんでした。

それからようやく11月7日になって、中宮嫄子様が亡くなられて以来はじめて天皇が政務に取りかかられました。
天皇が紫宸殿ししんでんにお出ましになられ、そこで官奏かんそうなどがあったそうです。

また、後一条院の故中宮威子いし様の女房だった出雲いずもの御という人が、この嫄子様の女房だった伊賀いが少将しょうしょうの元へ

いかばかり 君嘆くらむ 数ならぬ
                     身だにしぐれし 秋のあはれを

と詠んでおくりました。
秋の宮中宮が次々に亡くなられてしまわれた中での、この出雲の御の気遣いはまことに情を理解したものであり、素敵だなあと思われましたよ。

その翌年の七夕の日、天皇から関白頼通様の元へお手紙がありまして、それには

去年こぞの今日 別れし星も あひにけり
            などたぐひなき 我が身なるらむ

と詠まれてあったとか。
大変畏れ多く、非常に風雅を理解されている天皇さまだなぁと承ったものですよ。

この後朱雀天皇と嫄子様のお契りは、かの唐国の玄宗げんそう皇帝と楊貴妃ようきひを彷彿とさせますよね。
天皇はその星合い七夕の夜空をどのような思いで眺めて過ごしておられたのだろうと、考えるだけでも本当にお可哀想に思われます。
ある人から「たづねゆく まぼろしもがな…」という源氏物語のお歌を思い出されていたのではないかと思わせるような、悲しげなご様子だったとかも伝え聞きました。

そうそう、この天皇は漢詩などもすぐれたものをお作りになっていたとか。
「秋の影、いづちへ帰らむとす」という題で、

路、山水にあらざれば 誰か止むるに耐へむ
跡、乾坤けんこんにまかせたれば 尋ぬる事えむや

といったものをお作りになっていたと承っております。
この「乾坤」というのは天地あめつちのことですよ。

さて、天皇は長久2年3月4日にお花見の宴を開かれましたよ。
そういえば、その頃に天皇から「歌の師もうぐいすには如かず」という題を賜って省試が行われたと聞いております。

翌年の3月頃、当時東宮大夫とうぐうだいふと申しておられた、堀河右大臣頼宗ほりかわのうだいじんよりむね様が女御として延子えんし様を奉られました。
延子様はそちの内大臣伊周これちか様の御娘君の所生でいらっしゃいますよ。
この頼宗様も、ご兄弟の大臣たち(頼通、教通のりみち)に劣られることなく、とても立派な方でございました。

また、同年10月頃には大二条殿だいにじょうどの教通様の次女でいらっしゃる真子しんし様が尚侍ないしのかみになられたりして、あちらもこちらも華やかな感じでいらっしゃったことでした。

そして、11月には天皇の第二の皇子(後三条)の読書始ふみはじめがありまして、式部卿大輔挙周しきぶのきょうたいふたかちかと申す文章博士もんじょうはかせが皇子(後三条)に『御注孝経ぎょちゅうこうきょう』という漢籍を教授し申し上げました。その時に、蔵人実政くろうどさねまさ尚復しょうふくという役目をしておりまして、この方も皇子(後三条)の教え役にあたられましたよ。

長久4年の3月に、佐国すけくに孝時のりとき時綱ときつな国綱くにつなという者たちが省試を受けました。これは弓場殿ゆばどの(校書殿きょうしょでん)という場所で行われまして、既に合格して文章生もんじょうしょうとなっている者はその上の文章博士の位を、まだ合格していない者は勉強のための奨学金を目指していましたねぇ。
しかしその試験課題の難易度がそれはもう高くって、句ごとに唐人の大学者の名前を入れなければならなかったんですよ。
適切な回答を提出できた者はほとんどいなかったとか。

寛徳元年8月、大隅守長国おおすみのかみながくに但馬守たじまのかみに、民部丞生行みんぶのじょうたかゆきも同じく但馬の国司のじょうになさいまして、その国にやってきた朝鮮人をたずねさせられました。

……その翌年1月16日、天皇はご病気で退位なさってしまわれて、その後ご出家なさいました。御年37歳でいらっしゃいましたよ。
世を保たれること9年でした。
まだまだお若くいらっしゃいましたのに……。惜しいと思わない人はいませんでした。

先帝(後一条)は享年29歳でいらっしゃいました。そして、この天皇はそれよりさらに8年長く生きて崩御なさいました。
この二帝の母君でいらっしゃる彰子様は、あまりにも長寿であられたがゆえ、このように引き続いて御子を亡くされるというご不幸に遭われたんですよね。
長寿であるということは良いことばかりではなくて、どうしても避けられない悲しいことが絶えず起きてしまうものなんですよ。
それでもやはり、御孫のうち、1人は次帝(後冷泉)、もう1人はその東宮(後三条)でいらっしゃるわけですから、彰子様は本当に大変高貴な方なんですよ。

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