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「師匠、いかがお過ごしですか?」

今日は私の師匠、と言っても心の中で私が勝手に師匠と呼んでいる存在についてお話したいと思う。私は小学校3年生頃から中学卒業までの期間、近所の個人塾に通っていた。そこの指導者である女性が私の心の師匠である。そこは個人塾と言っても看板もない個人宅の一室を開放した教室だった。姉が通っていた関係で私は知り合い枠という感じで通うことになったが、他の生徒達も大体、同じような経緯で通うことになったようだった。塾の名は先生の苗字で「加藤塾(仮)」と呼ばれていた。看板も無いし宣伝している様子も一切なかったので皆、とりあえず「加藤塾」と呼ぶことにしていたという感じだ。宣伝やHPもない加藤塾であったが、その指導形態は寺子屋式の個別指導であった。和室に長机が先生を囲うように配置され、中央にはいつも先生が居た。自分の枠の時間帯に行き、自分の学びたい教科の教科書、ノートを持参するので、そこで学ぶ子ども達は学年も異なるし、勉強している教科も各自異なる。一応、中学生は少し遅い時間帯に設定されていたが、日によっては一緒になることもあったので、小学生の頃の私は「中学になるとあんな勉強をするんだ・・・大変そう」と思ったりもしていた。毎回、帰りに次回の約束をして帰る。その予定を先生が鉛筆でカレンダーに書き込んでいる姿を今でもはっきりと覚えている。月初めに月謝袋を直接渡していたが、確か金額は基本週に2度程で7千円位だったと思う。基本と書いたのには例外があったからだ。中学になるとテスト前は週に4日とか通っていた。(別料金は特にない。)各自、自分の苦手科目や先生から指定された教科の教科書を持参で訪れるのだ。私の場合は数学を指定されることがほとんどだった・・・。また、テスト前になると先生の息子さん(当時大学生)も助っ人で指導にあたることもあった。息子さんも先生に負けず劣らずの熱血タイプで、指導が厳しいことでも有名だった。

加藤塾に通う子ども達は私を含め、あまり勉強が得意ではない子ども達が集まっていた。得意でないというよりもむしろ不得意な子どもの方が多かった気がする。家での自学もうまかいかず、かといって大手の塾にも通えない、そんな子ども達が自然と集まっていたように思う。先生は真面目に学習をしない子ども、勝手にサボる、遅刻をする子どもには容赦なく「辞めていいよ。もう来なくていいよ」と言っていた。それは先生の厳しさであり優しさであったと今になって思う。事実、先生にそう言われて辞めてしまうような子どもは一人も居なかったのだ。皆、子ども心に加藤塾という学び場の存在、必要性を分かっていたのだと思う。加藤塾では返却されたテストや通知表も先生に見せるので、同じ地元の学校へ通う者同士はお互いのテストの点数や大よその成績を知ることとなる。プライバシーや配慮なんていう言葉はそこでは通用しなかった。でも、皆がオープンであっても誰一人として赤点の子どもを馬鹿にしたりしなかったし、満点の常連の子どもも威張ったりはしなかった。便宜上、集団で学ぶことにはなっていたが、そこでは先生と生徒の個別指導、信頼関係が徹底していたからだ。

私は受験生である中学3年の時と高校3年の頃に大手の塾の短期講習に通ったことがある。中学の頃は数学の強化のため、高校では地学を学ぶために通った。でも、短期講習が終わると定期の塾生にならなかったのには理由がある。2つの塾は異なる塾であるがどちらも大手で生徒も沢山いたし、施設も立派だった。最初に訪れた時には加藤塾しか通塾の経験がない私は、綺麗な机やスーツを着た講師に驚いたものだ。しかし、あくまでこれは私の経験で、私個人の感想に過ぎないが、そこの講師達には温かみを感じることはなかった。受付のスタッフも親切で笑顔を絶やさなかったが、いつも事務的な対応だった。これはたまたま私を指導した講師達がそうだったのかもしれないが彼らは出来の良い生徒にはあからさまな贔屓をした態度や言動で接していたのが嫌でも分かった。スピードについていけない私は講義を聞くだけで精一杯で毎回、劣等感を抱きながら帰路に着くこととなった。暗い夜道を帰るときの寂しさと情けなさを今でもはっきと覚えている。高い月謝を支払い、夜遅くまで塾に通う必要はないと悟った私は「自分で勉強する」と親に宣言し、その後は実際そうしていた。

大学生の頃、同窓会で再会した同級生と最初に話した言葉は「加藤先生、元気かな?」だった。その子とは塾時代もほとんど話したことはなかったが数年ぶりに再会した私達は加藤先生、加藤塾の思い出話で盛り上がった。加藤塾での数年は時を経ても色褪せない思い出が沢山ある。先生は学歴はビックリ!だが、見た目は普通の主婦で、男子生徒がからかって「大仏パーマ!」と笑っていたこともあった程だ。しかし、一見、普通の主婦のようだが普通ではないオーラが先生にはあった。誰がいつ何を聞いても答えてくれる、一緒に考えてくれる、そして指導にあたっている時の先生の目は真剣そのものだった。まるで魔法使いのような指導力と絶対に見放さないというその態度そのものが子ども達に安心感を与えていたのだと思う。「私はここに居ていいんだ」「ここで学ぶんだ」中学卒業と同時に加藤塾へは通うことはなくなったがその後の私の人生で先生を越える程、熱心に指導してくれた先生には出会うことはなかった。

加藤塾は私の2、3学年下の学年を最後に新規の生徒を取らなくなり、既存の数名が卒業すると共に閉塾した。はっきりとした理由は分からないが先生の中にも「ここまで」という区切りがあったのだと思う。元々、個人宅であったから塾を辞めても先生の自宅はそこにあったが、偶然ばったりと出会うようなことはなかった。ただ、一度だけ、大学生の頃に自宅付近の路地で着物姿の先生を見かけた。当時、大仏パーマと呼ばれていたヘアとは全く異なり綺麗に染めた髪に凛とした佇まいの先生の姿にはどこか清々しさのようなものを感じた。その姿は私達を指導していた頃には見ることが出来なかった柔らかな雰囲気だったことからも、先生がいかに塾を運営し指導者であった頃、気を張り詰めていたのかがよく分かった。その後、ちらりと母から聞いた話によると先生は娘さん夫婦と2世帯同居をしていて、お孫さんのお世話を楽しんでいるとのことだった。

その話を聞いてからももう数年が経とうとするので、先生が今頃、どのように過ごされているのかは分からない。まだあの場所に住んでいるのかも分からない。ただ、一つだけ言える事は、私が今、ことのは幼児教室を運営し指導者となった背景には加藤塾で知った学ぶことへの情熱、先生の厳しくも温かい眼差しがあったからだと言える。個別指導という形態を選んだもいつも一人一人に真剣に向き合ってくれた先生の姿に一歩でも近づきたいという想いからだ。

先生はこの先もずっと私の心の師匠である。まだまだ、未熟者の私ではあるが、今後も加藤塾で学んだことを自分の指導に活かし、そして、自分の指導、教育への想いを形にしていきたいと思う。教育とはこうしてバトンを受け継いでいくものだと思う。私のバトンもいつの日か、誰かに渡せる日がくることを夢見て、今日も、明日も教育に真剣に向き合っていこうと思う。

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