はじめてコウジと寝た日.5
前回のおさらい◎
さっちゃんの計らいで、コウジ 改め 糀ちゃん を家で育てることに。果たしてう上手く育てられるのか…!
の、その前に。
何が自由で、何が不自由か
朝から始まった糀づくりは、一度に2升ずつ、たぶん5回転ほど回してたと思う。その間、上山に地域おこし協力隊で入っている"ひろぽん"と、「お腹空いたね~」って話を何回かした。笑
11時半。そろそろお昼ごはんの準備。
今日は炊き立て羽釜ごはんと、持ち寄りおかず。
上山に来てから、"持ち寄り”で誰かとごはんを囲む機会がうんと増えた。むしろアパート暮らしだったころはほとんどしてなかった、と思う。
いま夫のふくちゃんと暮らしている上山は、
お買い物面でみると
・コンビニ、スーパーまで車で15分
・温泉は車で5分だけど、売店は品数少ない
・一番近いパン屋さんまで車で20分
・ピザの宅配はエリア外
だいたいこんな感じ。
すごく不便ではないけど、気軽にひょいっと買いに行ける距離ではない。だからか、「集まろう!」ってなったら、お鍋か、おかず持ち寄りなことが多い。おかずは手作りだったり、もらいものだったりで、何かしら上山の畑で採れたお野菜が入ってることが多い。時には鹿肉や猪肉もご馳走になったりする。
なんだか多いばっかり言ってる気がするけど、
何が言いたいかというと、
不自由だからこそ、得られるものがある ということ。
自由=好きな時に欲しいものが手に入れられる とすると、距離面でハンデがある私たちは不自由だ。でも、そのぶん分け合ったり、食物を"生産"したりする。その結果、家族や好きな仲間と手作りの食卓を囲むというしあわせが生まれる。
そう考えると、逆に自由だなと思う。
自分たちが食べたいものを自分たちでつくる。
空気のきれいな場所で、自然のちからを借りて食物を育てる。
さらに、手をかけなくても、食べられる野草も生えている。
そうやって、何を身体に取り入れたいか、選ぶ幅が広がっていく。
「必要なもの、欲しいものは買う」が当たり前だったわたしの価値観は、ここで暮らして、「ないものはつくってみる」に変わった。自分のなかの、すごく大きな変化だったと思う。
全部が全部できてるわけじゃないし、可愛い服は買うしパン屋さんはすきだし雑貨屋さんもすき。けど、「買う」以外の選択肢を価値観として持てたのは、豊かなことだな、と思う。この環境に、ありがとう~~~って思う。
"家族や好きな仲間と手作りの食卓を囲む”というしあわせの一歩として、暮らしのベースとして、今年こそは二人で畑を頑張りたいねって話してる。
お、今回は結構ふくちゃんも本気だな、と感じる。わくわくだ。
果樹を植えるということ
羽釜ごはんは、子どもたちも食べやすいように塩むすびにした。これがまた美味しかった…!おかず一覧はこちら。どれも最高でした。
・昨年のさっちゃんちの糀を使ったお味噌入り焼き餃子
(お手製ゆずポン酢付き)
・さつまいもと大根の煮物
・野草のピリ辛炒め
・大根のお漬物
・野菜サラダ
・アボカド塩昆布
食べながら、アボカドは種から実を育てるのに、10年以上かかるという話をしてたとき。さっちゃんが「果物の木があるのはほんとにいいよね~」と言った。「昔の人が植えてくれていたおかげで、いまこうやって柿とか食べれるんだもんね」と。
たしかにそうだなあと思った。
今すぐ食べれるわけじゃないのに、果樹を植えてくれた人がいて、それを今わたしたちが食べさせてもらってる。いちょう庵の栗も、銀杏もそう。これだけ大きな木が育つのに、どれくらいの年月がかかったんだろう。ありがたいなあ。
と同時に、じぶんたちは次の世代に何を残せるんだろう。何を残したいだろう、と思った。ハイテクな家電よりも、太陽光パネルだらけの斜面よりも、栗を拾って栗ご飯が炊けるような、そんな楽しみを残していきたいと思った。昔の人たちがそうしてくれたように。
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?