🎖️ note×文藝春秋 投稿企画 #2000字のホラー ピックアップ｜ショートショート｜団地奇譚

　僕は3歳から15歳まで、九州の某県にある団地で暮らしていた。白い外壁に淡い赤の玄関ドア、灰色の共用階段。慈悲深く遊具の設置された広場もある。代表として百科事典に載せてもいいくらい、よくある団地だ。
「住めば都」と一口に言っても住宅の形態や場所によって享受される住み心地は大きく変わるのだろうが、先述の通り物心つく前から団地で暮らしていた僕には比較対象がないため、「こんなもんか」と思いながら過ごしていた。
　思い返してみてメリットを書くなら、性質上ご近所さんが多く身近にいて遊び仲間を集めるのに苦労しなかったことだ。子どもにとって友達と遊ぶ以上に大事なことはない。デメリットは3階に住んでいたため大きな足音を立てると「下の階の人に音が響いて迷惑だから静かにしなさい」とよく母に注意されたことか。でも、子どもはドタバタするために存在しているのかもしれない。自己弁護。
　団地の一部は雇用促進住宅だった。が、当時の僕はそれがどういうものかよく理解できておらず、「コヨーソクシンジュータク」というように音だけで覚えていた。それから僕らが住んでいた団地を仮に甲団地とすると——ええ、その通り——乙団地も小川の向こうに建っていた。これらは名称は異なるものの経営母体は同じだったはずだ。特に確かめようという気分にはならないけれど。
　ここまで書いてなんだが、住み心地も雇用促進住宅も乙団地もこの話には関わってこない。少しでも雰囲気が伝わるならと思って。さらに深掘りするなら駐車場とか記すことはあるけれど、さすがに冗長になるから省略させてもらいたい。
　さて、奇怪な出来事は甲団地のまさに僕らが住んでいたB棟で起こった。14歳の晩夏。

「いきなりだけど、プロ野球クイズ！」と幼馴染は切り出した。
「本当に唐突すぎる……」という僕の指摘はもっともだろう。「まるでゲリラ豪雨だね」
「このバッティングフォームはどの選手でしょう？」と彼女は続けた。
「聞いてる？」と僕は尋ねたが、たぶんそれすら聞き流されている。
　彼女は同じ団地に住んでいる同い年の幼馴染だ。いつものように隣接された広場で僕らは駄弁っている。
　彼女は得意げに私物の金属バット（！）を手に取り、左バッターの構えをした。
「1回しかスイングしないから、よーく見ててね」と彼女は注意喚起し、右脚を大胆に上げてステップし、シャープにバットを振った。そのモノマネからどことなく大学生時代は慶應ボーイだった、それから将来短い期間だけれどプロ球団の監督をしそうな雰囲気が漂ってきた。
「ちなみにジャイアンツのフランチャイズプレイヤーだよ。4択にしようか？」と彼女は楽しそう。
「フランなんちゃらプレイヤーって何？」と僕は尋ねた。彼女は得意気に答えた。
「移籍せずにそのチーム一筋ってこと」
「ずっとジャイアンツかあ。思い浮かばないからお言葉に甘えて4択で」
「ほいっ」

・清水
・二岡におか
・高橋由伸よしのぶ
・ペタジーニ

　各々のバッティングフォームがどうだったかあまり憶えていない。ただ二岡は右バッターだったはず。それからペタジーニが慶應大学出身だという話は聞いたことがない。ということは消去法で清水か高橋由伸だが……。
「うーん、じゃあ清水かな？」と僕は答えた。ぶっちゃけるとアタリでもハズレでもどっちでもいい。
「残念！　正解は高橋由伸でした！」と彼女は嬉しそうだ。さらに続けた。
「どうでもいいけど高橋由伸と川上憲伸けんしんってフルネームで呼びたくならない？　なんで？」
「確かにそうだよね。語感がいいからかも」
「……君もウチの野球チームに入ればいいのに。運動神経には期待しないけど、ちゃんと私がマネジメントするよ。小学生の頃はやってたんでしょ？」
「うん、だからもう野球に飽きちゃった」
　彼女は分かりやすくションボリし、おそらくそれを悟られまいと慌てて話題を変えた。
「夏休みの宿題終わった？　もう8月も下旬だけど」
「実はギリギリ間に合うかどうかって感じで……」
「私と一緒！」
「思うんだけど「先延ばし癖」って重病だよ。キルケゴール風に言うなら『死に至る病い』というか」
「意味不明だけど本当にね。明日、勉強会しよっか」
「オッケー、僕ぼくん家ちが使えるかお母さんに訊いておくよ」と僕は約束した。これが夏休みだな。それからこう続けた。
「まあ、今日はせっかく良い天気だし午前中は遊んでもバチは当たらないと思うよ。各々午後には勉強に取り掛かるとして、これから何しようか？」
「キャッチボールでいい？」
　また話題が野球に戻ったな、と思った。よっぽど好きらしい。これくらい熱中できるのは本当に素晴らしいことだ。ええと、キャッチボールだっけ。
「…！！　……………　バスケがしたいです……」と僕は言ってみた。
「なんだか芝居じみた言い方だね」と彼女は訝しんだ。
「『スラムダンク』ってバスケ漫画にこういう名ゼリフがあるんだよ」と僕は待ってましたとばかりに答えた。彼女は若干冷さめた目でこう言った。
「ふーん。『スラムダンク』どうこうというより、急にフィクションの名ゼリフを日常会話にぶっ込んでくるところがイタい部類のオタクみたい。大体シュートするボールもゴールもないじゃない」
「……すべておっしゃる通り……」
「じゃ、今日はキャッチボールね。帰ってボールとそれからグローブを2つ取ってくるよ。あ！　おしっこもしてくる」
「おしっこの報告はいらないよ！」

　僕は3階で生活を営んでいた。このB棟には4階まであるのだがそこの住人がどんな人だったか記憶にない。というのも僕には交流がなかったからだ。もし子どもも住んでいたら一緒に遊んだりして印象に残ったのだろうが。そのため僕自身4階に上のぼったことはなかった。
　しかしこの日、ふと、このB棟4階に上らなければならないという強迫観念きょうはくかんねんにとらわれた。突拍子もないだろう。僕もそう思う。でも事実としてあるのは、文字通り強く迫られる感覚。そうしなければ重大な何かを損なう気がしたのだ。現在の科学では説明が難しいこのような不可解な現象は、今日ほどではないにせよ偶にある。たぶん僕だけではなく。いわゆる「胸騒ぎ」や「虫の知らせ」に近く、だからこそこのような言葉が残っているのだろう。……僕の心に不吉な風が吹いている。とにかくこのままではまずい。何か別のことを考えよう……。

・『スラムダンク』で最も優秀な選手は誰だろう？
　最強と名高い山王工業のエース沢北かな？　いや、山王には高校生離れしたメンタルをも兼ね備えた河田兄もいるぞ。大黒柱として全幅の信頼を寄せられる陵南の仙道かも。いやいや将来性も加味すると湘北の流川も外せないな。ん？　バスケ……Basketball……B……B棟4階・・・・……。

　いやいやいや、どうしてしまったんだ僕は……。違うことを……。

・夏休みの宿題を振り返ろう
初めにやったのが自由研究だったなあ。炎色反応を再現するっていう手垢のついた取り組みだったけど……。藍色の炎らしいインジウムとか危険物で手に入らなくて不完全な結果になったしな。ん？　インジウム……原子番号49……4……B棟4階・・・・……。

…………。……だめだ、今は思考がまともじゃない……。でも僕はそこへ行かなければならないのだろう。きっと……。

　野球道具を抱えた彼女が笑顔で戻ってきた。「お待たせ！」と言う彼女を直視できない。
「ちょっとごめん、僕もおしっこに行くよ」と僕は嘘をついた。彼女はすぐさま言った。
「『おしっこの報告はいらないよ！』ってさっき私に忠告したの君きみじゃん！」

　左右の腿を交互に上げて一段一段踏みしめながら上階へと向かった。悪い意味で何者かに背中を押されているのを仄かに自覚しながら。すると初っ端驚くべきことに、自宅の3階から当の4階に上るその際に自分が自身の体を動かしているという感覚が希薄になった。それから自分が階段を上っているという確信が持てなくなった。「ここに来るべきではなかった」と急に不安になった。引き返そうとしたがやはり自分が階段を下っているか疑わしい。それでもひたすら脚を動かしていたがいつまで経っても3階に、あるいは4階に辿り着かない。耳を澄ましても外の音が聴こえない。僕は動くのをやめて膝を抱えて座り込んだ。太腿とショートパンツの隙間に風が入り込んで悪寒があった。どことなく息苦しい。しばらく膝に顔を押し当てて目を瞑っていた
　すると突然、僕の耳にバサバサと羽のようなものがぶつかる感触がした。鳥？　いや違う、蛾だ！　常軌を逸した大きさの！　僕は飛び退いた。動悸がおさまらない。蛾は階段の手すりにとまっている。茶色でサイズは野球のグローブほど。そして奴は不気味な優雅さでトンネルに吸い込まれていった。トンネル！　僕は驚きすぎだ。だけど無理もないだろう。だって……。息を呑んだ。階段の壁にトンネルが出現していた。高さこそ大人でも屈まずに済むが、人はともかく車ではまず通れないくらいの小さなもので、造りとしては無骨な印象を受ける。入口には上から垂れるかたちで、要は暖簾のように花が咲いていた。小さく青い花弁が5、6枚あり副冠は黄色と白。後で調べたら勿忘草ワスレナグサだった。この花は本来は地面から空に向かって伸びる種類のもので、それを知らなくてもやはり天井に根を張りぶら下がっている眼前のこの咲き方にはひどく違和感がある。足元には花弁が散らばっていた。僕はそれを8枚拾ってポケットに入れた。

　僕は考えた。もちろんこのトンネルを進むべきかについてだ。結論、進むことに決めた。それ以外にできることがないから。トンネル内には灯りがなく出口らしき光の差し込みもない。少し入った——入口の階段の明るさがまだ届くくらいの——位置でも一段と冷え、動悸は相変わらず抑えることができないが、右手を壁につけて勇気を振り絞って脚を前へ前へと動かした。進むにつれてだんだんと暗くなり、歩みも鈍くなっていった。
　しばらく続けた後、歩いた距離をつかむため後ろにある入口を振り返った。しかし、光は一切見えなかった。それほど遠くないはずなのに。それで動揺した僕は壁につけていた右手を離してしまい、真っ暗闇の中で方向感覚を失ってしまった。慌てて壁を探し、とにかく両腕をバタバタと動かした。すると左手が何か硬いものにぶつかった。逃すまいとそれを掴んだ。感触によって捉えた形は円筒型のドアノブのようだった。ドアノブ？　右に回してドアを開けた。

　やかましいのにどこか懐かしいミンミンゼミの鳴き声や、団地そばにある道路のアスファルトを車のタイヤが擦る音が耳に飛び込んできた。それらに慣れるまで少し時間を要した。今、開いたドアはB棟最下階にある物置のものだった。ここにこの棟の住人が新聞紙や段ボールを入れておき、廃品回収の際に取り出して業者に引き取ってもらうのだ。おそらく僕は元の世界に戻ってきたのだろう。ひとまず胸を撫で下ろした。

　広場に戻ると幼馴染が苛立っており、こう不満を漏らした。
「おしっこにしてはだいぶ遅かったね。扇風機つけてテレビ観ながらコーラ飲んでアイスも食べてきたでしょ。チョコモナカジャンボ？」
「うう……実はいろいろあって……」
「……ちょっと雰囲気変わった？　なんだか久しぶりに会ったような気さえするよ。気のせいかな。ほら、キャッチボールするよ」

　僕らは汗だくになってボールを投げ合い、正午の鐘が鳴って各々自宅へ戻った。そしてふと例のトンネルの入口で勿忘草の花弁を8枚拾ったことを思い出し、右手をポケットに突っ込んだ。
すると、ちゃんとそれらは残っていた。僕は自室にあるカメラのフィルムケース——父のおさがりのカメラで写真を撮って遊ぶことがあった——にその花弁を入れて蓋をし、学習机の中央に置いた。その後、母が作り置きしてくれていたオムレツをレンジで温めて食べ、同じくダイニングテーブルで数学の勉強をし、自室でPS2のラチェクラに熱中した。昼食も勉強もゲームも手を動かすのに必要だったのだ。あの恐怖体験を脳から追いやるために……。
　だんだんと涼しくなり、18時の鐘が鳴った。ほどなくして母が帰ってきて、僕は例の恐怖体験について鼻息を荒くして話した。母は昼寝をした際に夢でも見てそれを現実と混同したのだろうと結論づけた。そう言われることは予想がついていた。だから僕は自信満々にカメラのフィルムケースを開き、勿忘草の花弁を見せ……ようとしたが、ご賢察の通り花弁は消えていた。

　月日は流れ……。…………。……僕は……。

・B棟4階に行くべきだ
・B棟4階に行かなくては
・B棟4階に行くよりほかない
・B棟4階に行かないでどうする

　今、僕は例のトンネルのそばに座ってこの文章を書いています。この異界に侵入できるのは一生で一度きりだと思っていましたが、以前試ためしにB棟4階に上ってみたら再び飛び込めました。たまに足を運んでいます。この場所に惹かれるのです。まるで誘蛾灯。僕は蛾なのかもしれない・・・・・・・・・・・。多少の悪寒や息苦しさはあるものの、すぐに慣れました。それ以上に無音で誰からも邪魔されないという恩恵は大きいです。例えば集中して記憶を辿り、団地奇譚を書き残している時なんかにそう思いますね。

　そうだ、あなたも来ませんか・・・・・・・・・・・・・？

2022年8月〜10月にnote with WEB別冊文藝春秋による投稿企画 #2000字のホラー が開催されました
（過去に投稿された作品でも参加可能だったため、2000字程度に調整して参加しました）
受賞こそ叶わなかったものの、こちらの作品が公式マガジンにピックアップされました 🎉

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選考の過程で「これは怖い」と感じた作品は、note運営事務局にてマガジンにピックアップしていきました
アカウント〈note読書〉より
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153/1,847記事ですから大したことではありませんが、それでもやはり大きな前進です

みんなでつくる百物語（ #2000字のホラー 記事まとめ）｜note読書｜note

味をしめてゲームもつくりました
ゲームからショートショートへ逆輸入された要素もあります