メラニー・クラインの最初の論文:Aus dem infantilen Seelenleben. 1. Der Familienroman in statu nascendi.
クラインは1919年7月13日に、ハンガリー精神分析協会で子供の観察を報告して、会員資格を得た。グロスカスの伝記やその後の研究によって、それが自分の子供の観察に基づくものだったことは、今ではよく知られている。そのことが一時――かなり長い間――伏せられていたのは、クラインがその報告を改稿して1923年に発表した論文”The Development of a Child”(Int. J. Psycho-Anal., 4:419-474.)に、当時の講演記録であるという注を付けたためである。そこに登場するのは、Fritzという「私の家の近所に住んでいる親類の息子」である。しかしそれに先立って1920年に、クラインは”Aus dem infantilen Seelenleben. 1. Der Familienroman in statu nascendi”を発表していた(Internationale Zeitschrift für Psychoanalyse, 6(2):151-155)。そこでははっきりと、「私の5歳になる息子エーリヒMein nun fünfjähriger Sohn Erich」と書かれている。だからそれはヨーロッパでは知られていたことで、取り立てて話題にならずに過ぎていたのだろう。
グロスカスによるクラインの伝記(Melanie Klein: Her World and her Work: By Phyllis Grosskurth. London: Hodder and Stoughton. 1986.)は、一次資料と関係者への取材を駆使して、それまで知られていなかったクラインの世界を描き出した。中には行き過ぎた推論もあってクライン派からの反発を招いたようだったが、結果的に、フランク(Claudia Frank: Melanie Kleins erste Kinderanalysen, 1999; Melanie Klein in Berlin: Her First Psychoanalyses of Children, 2009)やシャーウィン-ホワイトらの研究に通じている。
ジェイン・ミルトンが紹介しているように、1919年当時の原稿は残存していない(https://klein-archive.tumblr.com/post/186160601582/a-centenary-and-a-mystery-kleins-psychoanalytic)が、大筋が当然ながら共通する中で、観察を収めた枠組みおよび細部の記述に違いがある。children of that disposition (1920)は、gifted children(1923)に変更されている。これは同じ意味だろうか?
英訳は2019年に初めて公開された(https://melanie-klein-trust.org.uk/wp-content/uploads/2020/04/The-Psychic-Life-of-the-Child-by-Klein-1920.pdf)。日本語化はされていないようであり、約100年前の論文なので著作権上の問題はないと考えて、英訳も参照しつつ以下に邦訳紹介する。
報告:幼児の生活から
幼児の精神生活から:1.生まれたばかりの家族空想
メラニー・クライン
Klein, M. (1920). Aus dem infantilen Seelenleben. 1. Der Familienroman in statu nascendi. Internationale Zeitschrift für Psychoanalyse, 6(2):151-155
これから報告する短い出来事は、その前史との関連で初めて意味をなすものなので、先に私はその前の発展について、簡潔に説明しなければならない。
私の5歳になる息子エーリヒは、健康で丈夫な子供で、精神的にも正常に成長したが、発達はかなりゆっくりだった。彼が2歳になるまで話し始めず、3歳半過ぎまで、まとまって言い表すことができなかった。それでも、そうした気質の子供たちからごく早期に時折聞かれるような、特異的な発声は、認められなかった。しかしそれにもかかわらず、彼は外見も本質も、機敏で聡明な子供という印象を与えた。彼はいくつかの個別的な概念を、非常にゆっくりと身に付けた。彼が色の識別を学んだときには4歳を過ぎていて、「昨日、今日、明日」という概念を理解したのは、ほぼ4歳半のときだった。実際的な事柄つまり現実感覚の発達に関しては、同年代の子供たちに比べて明らかに遅れていた。しかしながら、驚くべきはその記憶力で――彼は比較的昔のことを詳細に覚えていて、思い出すことがでた――彼は一度理解した概念や事実は、すっかり自分のものにできた。一般に彼は、普通よりも質問が少なくはなかったが、多くもなかった。4歳半くらいになると、精神的な発達はかなり早まり、質問したいという欲求も強まった。
復活祭が近づき、彼は復活祭のウサギについて良い話をたくさん聞いていた。彼はこの話がとても気に入ったようで、彼は私に、復活祭のウサギは本当にいるのかと尋ね――私が否定すると――彼は明らかにそれを受け入れたがらなかった。彼は何度かこの質問に戻り、そのようなある時には、S家の子たち(彼の遊び相手である家政婦の子供たち)が本物の復活祭のウサギを持っていることによって、復活祭のウサギが実在するのを証明したがった。私が、あれは本物のウサギではあっても本物の復活祭のウサギではないことを説明すると、彼は黙ってすぐに別の話を始めた。同じ頃、彼は悪魔についてとても活気づいて話した。庭には悪魔の足跡があったとか、S家の子たちが「私は悪魔だ」という低い声を聞いた、とか。私が、それはどれも本当ではない、ただの「お話」だと言い返すと、彼は、自分も草原にいる悪魔を遠くから、たった今見たと言った。「悪魔は全身が茶色で、とても背が高いんだ」。彼に対して、その背の高い茶色の悪魔が子馬であることは証明することは、簡単だった。だがそれでも彼は半信半疑のようで、この思い込みもなかなか捨てられなかった。
彼がある晩、庭から戻ってくるのを拒んだのもこの頃だった。翌朝彼は私に、「庭に隠れて一晩過ごしたかった」と言って、この不服従を自発的に正当化した。彼はこの欲求をその後も何度か繰り返し、「S家の子たちと一緒に庭で夜を過ごしたい」とも言った。私が、草は湿っているし風邪をひくだろうと反対すると、彼は、あそこには小屋(家の一部を拡張して作った小さな避難場所)がある、そこで一緒に寝るんだと言った。また彼は、「自分はSの子供たちの兄弟だ――自分の同胞とも兄弟だと言うこともあった。もちろん、彼は兄に怒っていたときには、自分はもう兄弟ではないと宣言することもあった。
こうした質問や会話からほどなくして、その幼い子供の性的好奇心が顕在化したが、それには以下のような外的原因があった。兄姉たちは、エーリヒが生まれる前に起きた出来事について繰り返し話していたので、エーリヒが自分はその時その場にいたのかを尋ねると、「お前はその時まだ生まれてなかったよ」という答えが返ってきた。この説明は明らかに彼を悩ませ、彼は姉に自分の体験談を話して、「お前が生まれる前のことだよ」と言って一度復讐したほどだった。だがその数日後、彼は私に直接、「僕は生まれる前、どこにいたの?」と尋ねてきた。私の説明として、子供は母親の外でも生活できるほど強く大きくなるまで母親の中で育つから、その時はまだ私の中にいて、それから外に出て来る、それを「生まれる」と呼ぶのだと聞いても、彼はそのこと自体にはほとんど興味を示さず、「じゃあ、僕はママの中にいた時も、そこにいたんだね」と満足げに言った。その後何度か、もっと昔のことについて更に話している最中に、彼は「僕もそこにいたよ、あのときママの中にいたよ」と述べた。しかし、その件自体への彼の興味は単にごく僅かであるらしいことが、すぐに明らかになった。彼は、自分がかつてそこにいなかったのではないかという不安が彼に満足の行くように解消されると、また質問を、今度は別の形でしてきた。「人はどのように作られるの?」そこで私は、より詳しく十分に説明し、母体の中には40個の小さな卵があって、その一つから胎芽が発生することなどを彼に伝えた。彼は私を理解したようで、それ以上質問しなかったが、奇妙な行動をとった。私が更に詳しい説明を始めようとする間もなく、彼は明らかに上の空になってかなり恥ずかしそうにし、直ちに別のことを話し始めた。どう見ても彼は、自分が持ち出した話題から逃れようとしていた。それにもかかわらず、これ以降、彼はほとんど毎日この質問を、同じように言い表して投げかけてきた。彼はいつも自発的に質問した(私はいつも彼に質問を促すことは避けたし、人為的に質問を促すこともしなかったので)が、私が説明を始めるとすぐに、彼はいつも奇妙な、気の抜けた、恥ずかしげな行動を見せ、話題を変えようとした。間違いなくはっきりしているのは――復活祭のウサギと悪魔の質問と同じように――彼の真実欲動が、おそらくもっと彼の性分に合った、偽りでもっと空想的な信念を維持できるようでありたいという願望と闘っていることだった。それにもかかわらず、彼はこの質問を繰り返した。
或る時、彼はこうも尋ねた。「パパの中で育っている子供はいないの?」1) その後しばらくの間、彼は私をこの質問に晒したが、それを同時に自分の保母(偶然その後すぐに解雇された)にも向け、保母は指示に反して、子供はコウノトリが運んでくると答えた。それから彼は兄に同じ質問を繰り返し、兄は、人間は神によって創られたと答えた。しかし彼はそうした答えで満足しなかったようで、最後に私のところに戻って来て、「人間はどのように作られるの?」と質問した。そこで私が彼に、よく言われる説明を繰り返すと彼は、今度はもっと饒舌になって、家庭教師が自分に、子供はコウノトリが連れてくる(偶然彼はそれを、以前に誰かから聞いたようだった)と言った、と私に言った。「それはただのお話よ」と私は答えた。「S家の子たちは僕に、復活祭のウサギはイースターに来なかったけれども、家庭教師が庭に隠したんだと言っていたよ」2)「それは全く正しいわ」と私は答えた。「本当ではなくて、復活祭のウサギはいなくて、それはただのお話なの?」――「その通りよ」――「それでサンタクロースもいないの?」――「ええ、サンタクロースもいないわ」――「ではツリーを持ってきてそれを飾るのは?」――「両親よ」――「それで天使もいないの?それもお話なの?」――「そうよ、天使はいないし、それもお話よ」。――それから彼はしばらく質問を止めて、ため息をつき、間を置いてから言った。「でも、錠前屋さんはいるでしょう?本当にいるよね、そうでなければ、誰がクリスマス・ボックスを作るの?」
この会話の2日後、彼は朝食の時に、食べ終わったらすぐに引っ越してそこの主婦と住むと言った。「僕はS家の子たちのお兄さんになるし、Sさんの息子にもなるよ」。彼は既に自分のことを、エーリヒ・Sと呼んでいる。私がそれでは私には誰がいるのかを尋ねると、彼は「JとR」(彼の同胞)と言う。私は、彼らはもう年長だ、私はやはり若い子が欲しい、と反対する――それで、私は彼の友だちのグレーテを、彼に代わる子供として迎えるべきだろうか?少し悩んでから彼は、「うん」と言う。だがその直後、彼は私に、それでも私が彼を愛するかどうかを尋ねる。私の答え――それなら私は、彼の代わりにグレーテを愛さなければならないだろう、というもの――は、明らかに彼を動揺させた――けれども、彼は落ち着きを取り戻して、黙った。これは特に目を引いた。というのも、自分があまり愛されなくなるという単なる脅しが、別の状況では通常優しくて愛情深い子供に、強い印象を与えているからである。
彼は、そうしたらSさんはどこで寝ることになるのか尋ねられて、こう言う。「僕のベッドを僕のところに届けて。僕は歯磨き粉と歯ブラシを自分で持っていくよ」。私は、彼がとても楽しみにしている、今縫ってもらっているシャツはどうなるのか、彼に尋ねる。「出来上がったら、僕のところに送ってよ」。私は反対する――もしも私がそれを許さず、彼を行かせなかったら?「それなら、僕は走って逃げるよ」と彼はとてもきっぱりと言う。3)私はすぐに、私は彼が家を出るのを妨害しないけれども、まずSさんが彼を引き受けてくれえるかどうか、尋ねなければならない、と彼に答える。食後すぐに、彼はこう宣言する。「今からSさんのところに行って聞いてくるよ」。そこで私はもう一度、彼が私たちから去ることを残念に思わないかどうか、そしてそうなったら私のように誰が彼を愛するのだろうか、と尋ねる。すると彼は、「Sさんはママよりもずっと僕のことを愛してくれるよ」と言う。
その後、彼はS家の子たちと一緒に庭でお菓子を食べていて、私に向かってこう叫ぶ。「僕は許可されていて、もう一緒に住んでいるよ」。彼がこの新しい家族の選択をどれだけ一貫して実行しているかは、私への服従を放棄した仕方から明らかになった。私が夕方の早い時間に、彼が窓から身を乗り出しているのを見て、「下がりなさい」と声をかけると、彼は一緒にいる子供たちが彼を下がらせるまで下がらない。彼はまた、私のことを「Jのママ」と呼ぶ。彼は、自分が優しく愛していて、既に何年もその家に住んでいる女の子に、彼が自分のおもちゃを持って来る(彼はその手配もしている)のを反対されて、「僕は君のような人とは口を利かないよ」と告げる(この言い方は、彼には非常に異例である)。
私たちはその場の流れに任せたが、そこでなお、S家で彼が「彼を引き取るといったようなことは、不可能だからできない」と言われるかもしれないのではないかを問う。夕食の時間に、彼は再び子供部屋に現れる。私は彼に(とても驚いたように)、なぜここで夕食をとっていて、S家ではないのかと尋ねる。「僕はやっぱりここに住みたいだけなんだ」と彼は言う。私は、彼がS家で何か言われたのどうかを尋ねた。「子供たちは、これはただふざけて居るんだと言ったよ」とエーリヒは答えた。しかし私は彼にとって事をそう簡単にさせたくなくて、容赦なく「私は自分でSさんと話をしたい――おそらく彼女は結局、彼を置いてくれるでしょう 」と言う。彼の目は涙でいっぱいになり、「たとえ彼女が許してくれたとしても、僕はあそこには住みたくない」と言った。――「なぜそうしないの?」私は尋ねた。――「ママのことが大好きだからだよ」。
私が直ちに彼に再びキスとハグをすると、彼はとても喜んで、後から女の子にこう言う。「ママはとても優しかった。見てなかったの、僕たちは仲直りしてキスし合ったんだよ」。これで、彼にとって問題は解決となったようだ。彼はそれについて二度と話さないし、私が周囲の人たちに、彼をこの件で非難しないように指示したにもかかわらず、彼の兄は彼とその話を始めると――弟の方は応答しない。
この件で私が感じたのは、あたかも少年が、S家の女の子たちの一人と優しい愛情で特に結ばれていて、多くの若い男性がすること(あまり誠実な告白ではないが)をしたかのようだということだった。すなわち、若者は配偶者を選ぶと同時に、両親を新たに選ぶのであり、それは女性が夫を自分の家族に引き入れるという、よく見られる出来事に示されている。。
このような族外結婚のより深い理由は、フロイトの『トーテムとタブー』からわれわれによく知られている。
このような族外結婚の傾向とは別に、私には幾つかの外的な理由もまた寄与したと思われた――S家の子供たちがエーリヒを特別な愛情で包んだ事実も確かに彼の考えを育んだし、S夫人が時折お菓子をエーリヒにあげたこと、そして特に彼女が主婦として果物や庭を管理し、家の中で主導的な役割を果たしていたことである。
私がこのような短い経緯とそれから引き出した結論を話したフェレンツィ博士は、その子供の質問について以前から知っていたが、さらにもう一つの深く関連することも指摘した。彼の意見は、受けた説明が子供の探究欲動を満たすことに成功する一方で、説明は彼を、現にある抑圧の傾向との葛藤に陥れたというものだった。天使やコウノトリがいるという考えは――彼の真実欲動がそれにどれほど反発したとしても――彼が今や発見した現実的で剥き出しの事実よりも、おそらくまだ彼を喜ばせただろう。別の、もっと気品ある家族を探したい(その主婦が確かに彼にそう見えたにちがいないように)という願望に、無意識の欲求は、より上質な人々、つまりそのような普通の仕方で生まれていない人々を探す衝動を与えたのだろう。それは、悪魔や天使などの、まさにS家の子たちのよって彼に伝えられた物語にも寄与した可能性がある。
翌朝、フェレンツィ博士の見解の正確さを示す顕著な証拠がもたらされた。意外にも、朝の挨拶の直後、エーリヒが私に向かってこう尋ねたのだ。「ママ、お願いだから言って、ママはどうやってこの世に生まれてきたの?」
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1) 父親の貢献についての質問は、彼の中で無意識的に作動しているようだが、彼はまだそれを直接尋ねていなかった。
2) 見たところ、彼は復活祭のウサギの問題では、S家の子たちの説明だけで完全に納得していた(S家の子たちは、それ以外にはありとあらゆる「お話」をしていた)。おそらくそれもまた彼を、これまで何度も尋ねられては無視されてきた、「人間はどう作られるの?」という問いに答えること方向にもう少し進むことへと、最終的に刺激していた。
3) 2歳9ヶ月の時に、彼は実際に一度家から逃げ出したことがあった。その後もしばらくの間、彼は冒険への強い欲望と逃げ出す願望をまだ示していた。彼はこの出来事のことを、いまだによく覚えている。
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