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『カラスとケータイのいる都市』 鈴木博之

「空間とは生産されるものである」というのは、H・ルフェーブルによる命題であるが、彼が説いたように現代の空間は実に多様に生み出されてきた。いわく経済空間、政治空間、商業空間、文学空間、音楽空間、絵画空間などなど。それらは全体として都市空間を断片化し、個別化していった。それらは強烈な空間ではあっても、根本的に断片的な空間であり、それらは現実の都市から括り出された異空間なのである。

ケータイによって人びとはそこにいながらそれぞれが断片化された孤独な異空間に飛び去っている(!)。

2003年当時に書かれた文章においては人びとのデジタル上の繋がりは孤独であったかもしれないが、現代においてはそうとは言えないだろう。
しかし、人びとは相変わらず同じ場所にいながらそこにはいない。都市とは非在の群衆によって満たされている(!)

現実の都市空間自体は相変わらず個別化している。この鋭い指摘は数年経っても色あせることのない問題である。

…しかしもともとカラオケは、集団で楽しんでいるように見えても、結局は一人で歌っているのである。
(中略)要するにカラオケは見事に目的がはっきりした空間なのである。これを機能空間あるいは目的空間も、昨今の都市のなかには多様化しつつ急増している。古典的にはラブホテルがそうであり、その他ビデオ・ボックスなどもその類である。これらはケータイやウォークマンとは違って、現実の空間である。しかしそれらが都市の空間を個別化し断片化するものであることに、変わりはない。個別化された空間が都市のなかに現れ、それらは都市全体にとっては穴のような空洞となっている。

都市とはさまよえる場所だったのではないか。
都市とは多くの群衆に満ちあふれ、アクションに満ちあふれ、歴史に想いを寄せ、あらゆる細部にツッコミを入れる(心の中で)
個別化された空間はそれすらも許さないのか。

ケータイ社会はひとを非空間化し、非実在化させる。
公共空間とは、他者のいる空間ということである。

都市にあるべき空間とは公的な空間である。
それはコミュニティがどうだとか言うことではない。
他者が他者であるという空間である。私たちには今、他者を考える想像力が欠如している。

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