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だらだらと書く自分の文章。的確な短い文章。

大学でのプレゼンの授業、論文の梗概を書くとき、など物事を説明するとき、そして社会に出てからはもっと顕著になる

「言いたいことは短く」
「短い文章で説明してこそ説得力がある」

ということだが、この文句には一定の同意を感じつつも、そうすることでそぎ落とされてしまう何かがあるのではないかともいつも思う。


自分自身がだらだらとした文章を読むことが割と好きで、そして自分が書くときもだらだらとした文章になってしまうから、そう思ってしまうのだろうか。
これはケースバイケースだと考えると、議事録などの時は確かにだらだら書いたとしてもしょうがないので、簡潔にした方がよいのだろうと思う。しかし、そうしたケースバイケースとは別に盲目的に短く簡潔にまとめることをよしとしている人が結構いるような気がする。
そういう人たちにその部分について指摘すると「分かりやすく的確に意図を伝えられる文章がよい文章だ。」と言うだろうから、それを聞いて僕は「果たしてそうだろうか?」と改めて考えてしまう。
なんとなく色々とそぎ落としてしまう理由としては弱いような気がする。
と普段から思っていたところに円城塔氏の『シャッフル航法』の中の短編「φ」にこんなフレーズが出てきた。

「これは「わたし自身は何も変わっていないと信じている。」という文章を、こうして短く実現することができ、奇妙な説得力を持つからだ。
説得力を持つ短い文章が存在する理由は何か。
文章はおそらく、とても短いものからはじまったのだろう。一つの単語から、二つの単語の並びから。小さなところから組み上げられたので、その時点から説得力を持っているのだ。」

なるほど。
確かにある日いきなり人類が長文を喋る・書けるようになったわけではないし、人類の進化の過程ではいかに限られた語彙で相手へ伝えるかという時期があったのだろう。


そう考えると、短い文章をよしとする感覚は人間のDNAに組み込まれたプログラムのひとつのようなものなのと考えられるのではないだろうか。だからこそ、盲目的にそれを主張する人もいれば、TPOをわきまえる人もいる。
それはプログラムだからこそ短い文章をよしとする感覚が否定なく受け入れられる。

そう考えていくと、このなんということもない考えが人間の神秘へ近付いていき、面白く思える。なんてバカなことを考えた。


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