生き方上手は死に方上手
そもそも、「生き方上手」とは何だろうか?
人は、限られたエネルギーの中で行動を選択していく。
時に、無闇にエネルギーを使いまくって人生の「浪費」をしてしまうことがある。
これを最小限に留めて、自分が「必要」だと思う行為や「好きだ」と思える行為だけにエネルギーを集中できること。
端的に言ってしまえば、これが「生き方上手」なのではないだろうか。
じゃあ「死に方上手」とは何だろうか。「生き方」と同じように「死に方」も人それぞれだ。人はいつか死ぬ。平等に死ぬ。
死んで灰になれば皆平等。どんな大富豪も死ぬことは一緒。それでも尚、死に方を選べるとしたら、「良い」死に方をしたい。「死に方上手」になりたい。
具体的に言えばなんだろう。ブレスト的に挙げてみようかな。
例えば。孤独死をしないこと。家族に遺せるもの(遺産とか、教訓とか)があること。社会に対しても遺せるものがあること。
学校や会社で、良い仲間や、良い先輩後輩に出会えて、その縁がそのまま残っていて、忙しい中でも自分の葬式に駆けつけてくれること。
家族。配偶者が、子供が、親戚が、
あるいは孫が、親が、祖母が、哀しんで、愛おしんで、自分の人生を語ってくれること。
自分が生きた証を手に取って「あんなことがあったねぇ」「あの時はああだったねぇ」と話に花を咲かせて盛り上がってくれること。
自分が遺したものが、遺されたもの達に幸福を与えられること。
……私の中ではこういう答えが出た。
ここまで考えてみると、「死に方上手」の捉え方は、どれだけ善く生きられたか、どれだけ「生き方上手」だったのかという人生の結果発表みたいな形になってしまう。
「生き方上手」の定義は人によって違う。自分がさっきまで出した「生き方上手」の例は、あくまで自分にとっての「生き方上手」であって、これを読んでいるあなたの「生き方上手」ではない。
でも、それでいいと思う。生き方だって、幸福だって、人それぞれなのだから。
従って「死に方上手」かどうかの判断基準も人それぞれになる。判断基準は生きているうちに自分で考えるしかない。
一般論があった方が、考えたくない人にとってはラクチンかもしれないが、結局の所、やはり自分で考えるしかなさそうだ。そういうものなのだ。
良い死に方をしたかったら良い生き方をするしかない。
結局、めちゃくちゃシンプルな話で、因果応報だ。良い行動は良い結果になって帰ってくるし、逆もまた然りだ。
死んだときに、三途の川かどこかで、人生の採点をされるならば、そこには赤ペン先生はいない。自己採点だ。
自信をもって自分に花丸をつけられるように、今日も私なりに「生き方上手」とはなにかを考えていこうと思う。
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