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自然神との対話の足跡⑮

唯物史観が歴史学の主流を占め、記紀の内容は架空の絵空事だとされていますが、それは私たちの本当の歴史でしょうか。この数ヶ月遺跡を巡り「天照大御神=大日孁貴=卑弥呼」の関係性(同一性)についてどのように考えればよいか興味を持って探索を続けています(参考:自然神との対話の足跡⑬)。再び現地に足を運んで自分の目で確かめる前に、先駆者の論考を調べています。

平原弥生古墳が大日孁貴の墓

冒頭の画像は日本の考古学者、原田大六(はらだ だいろく、1917年1月1日 - 1985年5月27日)氏が記した著書「実在した神話」になります。原田大六氏は、日本の病理学ならびに考古学者であった中山平次郎氏に師事し、板の間で正座したまま一日6時間以上のマンツーマンの講義を9年近く続けて受けた後、地域の発掘・調査を通じて、「皇室の故郷は自分の郷土である」と確信を持つに至る論考を残しています。原田大六氏没後の1991年に、正式な調査報告書『平原弥生古墳 大日貴尊(おおひるめのむち)の墓(上下巻)』が刊行されています。
一方、天岩門別八倉比売神社には天照大御神の葬儀執行の古文書に基づく別説もあります。

賀志波比売神社が天照大御神の生誕地

阿南市見能林町柏野(かしわの)にある賀志波比売神社の祭神は賀志波比売命で、一部の説では天照大御神の幼名であるとされています。古事記によれば、伊邪那岐命が禊ぎを行った際に天照大御神が生まれたとされており、「阿波の水門(小鳴門海峡)と速水名門(鳴門海峡)」、そして「日向の橘の小戸の橿原に還向いて」とある場所が阿南市見能林町とされています。すなわち、賀志波比売神社は「天照大御神の生誕地」となります。

小鳴門海峡の入り江にある撫養港は「私の故郷」であり、阿南市見能林町柏野は青春の日(15~20才)に「私が毎日駆けていた土地」であるので、このような資料を目にして現地(で真偽)を全身全霊を傾けて確認せずに死ぬことはできません。
阿南市見能林で生まれた天照大御神がどのような人生を送って(八咫鏡の依り代になって)平原弥生古墳に眠ることになったのか、神武天皇の東遷(とうせん)の真相と祀られている橿原神宮の地および阿波(橘の橿原)の地がどのように関連しているのかなどについて合わせて解明してみたい(今年中に到達したい)と思っています。

河内が海であった(大阪平野を船で遡ることができた)のは紀元前50年までとされる:炭素14年代法による


人生は宝石箱をいっぱいに満たす時間で、平穏な日常は手を伸ばせばすぐに届く近くに、自分のすぐ隣にあると思っていた……