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1000字で紹介:竹下登(たけした・のぼる、1924-2000)

 竹下登(たけした・のぼる、1924-2000)は、第74代内閣総理大臣である。在任中に昭和から平成へと時代が移ったため、昭和としては最後、平成としては最初の総理大臣となった。近年では、ミュージシャンのDAIGO(だいご、1978- )の祖父としても話題である。


 竹下は、佐藤栄作(さとう・えいさく、1901-1975)を師と仰ぎ、国政でのキャリアをスタートする。初入閣はその第三次佐藤内閣での官房長官であった。その後、建設大臣や大蔵大臣を歴任する。有名な1985年のプラザ合意(Plaza Accord)は、竹下が大蔵大臣在任中の出来事であった。


 その後も順調にキャリアを積み、自民党内で「ニューリーダー」の1人として注目されていたのである。そんな竹下にとって、1976年に起きたロッキード事件の後も、派閥のボスとして君臨し続ける田中角栄(たなか・かくえい、1918-1993)の存在は、まさに目の上のたんこぶであった。党幹事長であった1985年、盟友・金丸信(かねまる・しん、1914-1996)らと派内勉強会「創政会」を結成し田中に対抗する。1987年には「経世会」として独立し、総理大臣就任への地盤を確固たるものとした。


 同年、長期政権となった中曽根康弘(なかそね・やすひろ、1918-2019)から禅譲という形で内閣総理大臣に就任する。党内の実力者を閣内に取り組んだ総主流派体制で盤石な滑り出しを見せた。竹下内閣としての1番の功績が消費税の導入だ。それまで幾度となく売上税といった名目で間接税の導入が議論されてきた。その度に世論の反発で立ち消えとなっていたのである。与野党の攻防の末に成立し、1988年に施行された。


 消費税国会が伯仲する中、未公開株の譲渡によるリクルート事件が発覚する。与野党をはじめ政財界にまたがった大汚職事件として、国民の政治不信を増大させた。竹下は、奇しくもかつてのボス・田中と同様に金銭をめぐる疑惑によってその職を辞することとなる。


 退陣後も、党内最大派閥のオーナーとして権力を維持する。竹下以後の党総裁=総理大臣の決定に際しては、その意向が大きく反映された。内閣までも飛び越えて権力を行使する様は「経世会支配」と呼ばれたのである。


 「言語明瞭・意味不明」と評される語り口や徹底した根回しによる気配りの政治家としても知られている。一方で、この政治姿勢は「足して2で割る和の談合政治」として小沢一郎(おざわ・いちろう、1942- )らに批判されたのであった。竹下と小沢の対立は、その後の平成政治に混迷をもたらすことになる。(1003文字)



◎参考文献
学研編集部,2006.『実録首相列伝』学習研究社.
平野貞夫,2012.『消費税国会の攻防』千倉書房.
御厨貴,2011.『知と情 宮澤喜一と竹下登の政治観』朝日新聞出版.
御厨貴・牧原出・佐藤信,2013.『政権交代を超えて 政治改革の 20 年』岩波書店.

◎文責 福田 脩(Twitter @S_Fukuda2021

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