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繭の季節が始まる [ショートショート]

 出勤途中に、路上でひどく咳き込む人を見かけた。
 それが、わたしの知る限り、最初の《繭の季節》の兆候だった。
 考えてみれば、前回の《繭》がいつだったか、すぐには思い出せないくらい時があいている。いつ次が始まってもおかしくはない。
「缶メシ、いま何日ぶんあったかな」
 わたしはマルにメッセージを送り、仕事場に入った。
 わたしが勤務しているのは、お菓子メーカーの工場だ。ビスケットなどの焼き菓子を主につくっている。
 自動運転のトラックで搬入された小麦粉や卵、バターなどの原材料は、ロボットアームで自動的に生産ラインに流し込まれる。ときどき、装置の故障が起きて、甲高いアラームが工場内に鳴り響くと、わたしたちのような工場スタッフが駆けつけて、故障箇所を修復する。ほとんどの工程が、自動化されている。
 しかし、わたしたちにはもうひとつ、重要な役割がある。検品だ。
 生産されたお菓子は、レシピに沿った原材料をつかい、正しい工程を経て焼き上げられる。割れたり欠けたりした製品はカメラでチェックされてはじかれる。
 ただ、最後に味見をするのは人間でなければ、というのがここの工場のオーナーの考えだ。レシピが正しくても、工程通りでも、見た目が大丈夫でも、味は人間が食べてみなければわからない。
 だから、わたしはここにいる。この二十四時間稼働している巨大な菓子工場の、五人いるスタッフのひとりだ。
 検品作業のなかで、ベルトコンベヤを流れていくビスケットをひとつつまみ、かじった。ふわりとバニラエッセンスの香りが漂う。この生活が、ずっと続くような錯覚を、いつの間にか起こしていた。
『ひと月はもつよ。どうしたの』
 休憩時間にマルから返信があった。
「《繭》が始まるかも」
『ほんとに? そういや、そろそろだね』

 マルは、ふうわりした茶色い髪の、細面の女の子だ。
 二年前にパブで知り合って、音楽の趣味がぜんぜん合わなくて、「違う違う!」とお互いに意見交換しているうちに、なんとなく面白くなってつきあい始めた。
 今はいっしょに住んでいる。
 マルの担当は貿易で、海外からさまざまな食品、布、デジタル製品を仕入れては、国内の販売サイトに卸している。自宅でできる仕事なので、ほとんどいつも家にいる。
 職業柄、彼女の在庫管理がしっかりしていることは間違いない。だから、なにも心配はいらなかった。
 —いつ《繭》が来ても。

 ずっと昔、covid-19というウイルス感染症が流行したのだそうだ。
 そのウイルスは、ワクチンが開発されて行き渡るまでの一年半ほどのあいだに、わたしたちの社会生活をすっかり変えた。
 covid-19が流行の兆しを見せた当初、人類は滅亡の淵に立たされているかのような恐怖にとらわれたそうだ。このウイルスは感染力が高く、ひとたび感染拡大が始まると、咳やくしゃみ、唾液に乗って、驚くべき速さで世界的なパンデミックになった。
 各国は、感染者が増え続ける都心部を中心に、数週間にもおよぶ都市封鎖を行い、すべての人の生活を手厚く支援することでみんなに外出を諦めさせ、どうにか感染拡大を防いだ。
 感染者数の爆発的な拡大がおさまると、いったん都市封鎖は解かれたが、ワクチンが開発されるまでは、どんなにみんなが注意深く生活を続けていても、少しずつ感染が拡大し始める。
 感染の状況を監視し、危険水域まで上がれば、ふたたび都市封鎖を行う。
 その繰り返しだった。
 そうやって、どうにかしのぐしかなかったのだ。

 当初、心配されたのは、経済活動が停滞することによる恐慌だった。世界が崩壊するかもしれないという恐怖が、人類を襲った。愛する人々をウイルスで奪われた人々も、数知れなかった。今まで知っていた世界、慣れ親しんだ世界が、崩壊したのだ。
 だが、愛する人々との突然の別れに慣れることはなくとも、みんな少しずつ、この封鎖と解除のサイクルには慣れていった。
 数か月に一度、必ず封鎖のタイミングが来るのなら、自由に動ける時期に、封鎖の季節を生き延びられるだけの生産活動を行い、給与は年間を通じて平準化して支払えばいい。
 《繭》の季節は、冬眠のようなものだ。自宅でできる娯楽以外のほとんどの経済活動がストップするが、その期間が終われば、またふだん通りの生活に戻ることができる。
 政治家も医療機関も役所も、すべての人間が、感染拡大がたび重なるにつれ、事態への対処に慣れていった。
 状況を把握できれば、怖くはない。
 感染防止のための都市封鎖も、そのために必要な経済支援も、すべては命を守るためだ。死なない、死なせない。それがいちばんたいせつだ。
 感染拡大期に備え、みんなは自宅にいつでも引きこもれるよう、準備をすることになった。それ自体は、困難ではなかった。そしてそれは、世界をたびたび襲う大規模な地震や津波、台風、水害といった天災への備えともなった。

 社会の仕組みは根底から変化した。
 デスクワークはいまや、会社でするものではない。自宅だ。
 農業や水産業など、第一次産業ですら、徐々に生身の人間から機械へと移行した。長距離トラックも自動運転だし、客先への配達はドローンだ。
 教育や学校も、授業の多くをオンライン化した。ただ、学校の存在意義は勉強以外にもあるので、学校そのものがなくなることはなかった。教師のありかたはずいぶん変わったらしいが……。
 仕事そのものが、従来の半分以下に減ったそうだ。だから、いまわたしたちは、昔のように毎日何時間も働いたりはしない。そんなに働く必要がないし、仕事はみんなでシェアするものだからだ。
 ただし、そのわずかな仕事が生む利益は、かくだんに巨大なものになったので、給与が減ることはなかった。
 ウイルスが社会を変えたのだ。

 ポーンと電子音がして、携帯端末にメッセージが届いた。
『《繭》が始まりました。今夜22:00から、外出禁止指示が出ます。皆さん、終業後はすみやかにご自宅に戻ってください』
 いよいよ来たか。材料が届くかぎり、工場はしばらく稼働を続けるが、それはモニター越しの監視のもとで行われる。異常が検知されれば、その時点で工場はいったん停止となる。
 ベルトコンベヤーから、ビスケットをつまみ、かじった。
 今日の最後の検品だった。これからしばらく、焼き立てのこの味とはお別れだ。