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シリアルキラーに最悪の星[ショートショート]

「やあ、ハニー」
 笑顔で店に入ってきた彼女を見て、私はにこやかに声をかけた。キスしようとして、彼女がまだ、ヘルメットのバイザーを下げていることに気がついた。
 私のほうは、とっくにバイザーを上げて、彼女に口づけしようと待ち構えていたのに。
「こんにちは」
 彼女は何も気がつかない風情で、指先をバイザーの唇近くに当て、キスのサインを送ってきた。まっすぐカウンターに行き、ドリンクを注文した。密閉できる容器に飲み物を入れ、蓋を閉め、ストローを刺して渡される。彼女はそれを受け取ると、バイザーの隙間からひと口すすって、ぱっと笑顔になった。
「おいしい。あなたも飲んでる?」
「ああ。だけどそれ、ひと口飲んでみたいな」
 少し露骨で、物欲しそうだったかもしれないが、彼女は陽気に笑い飛ばした。
「それじゃ、もう一杯頼んできてあげるね」
 私は舌打ちしそうになった。ガードの堅い女だ。さっと身を翻してカウンターに近づき、同じものをもうひとつ注文している。私が欲しいのは、そんなものじゃないのに。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。なあ、ハニー。そろそろ……」
「キスならダメ。まだ早いから」
 なんだ、やっぱり彼女は私のバイザーが開いているのに気づいていたのだ。
「危ないから、閉めておこうね」
 手を伸ばし、さっとわたしのバイザーを閉めた。
「なあ、早くなんかないよ。君は23歳だし、私は36歳だ」
「ダメ。知り合ってまだ半年だし、検査の順番も来てないんだから」
「そんな……」
「私たち、立派な市民なんだから。法律は守らないと」
 そう言いながら、彼女はすくい上げるようにわたしを見上げた。
「それとも、あなたは立派な市民じゃないの?」
 私はため息をついた。
「これ以上ないくらい、立派な市民ですよ」
「それなら我慢しないとね!」
 笑い声を上げる彼女と、2時間ばかりおしゃべりをし、私たちはそのまま大人しくそれぞれの家に帰ることにした。
「クルマに乗って行く?」
「ううん。私もクルマだから。じゃあ、またねー!」
 彼女は手を振り、自分の自動運転車にさっそうと乗り込んで去った。本当に、とことんガードが堅い。

 ずっと前のことなんだが、covid-19という感染症がパンデミックを起こした。
 何年もかけて、人類はcovid-19を押さえ込むことに成功した。だが、大きな後遺症が残った。
 超がつくほどの潔癖症だ。
 covid-19は、感染者の2メートル以内に近づくと感染する恐れがあると言われ、ソーシャル・ディスタンスという言葉が流行し、人間は距離を置いて人間とつきあうことを余儀なくされた。テレワークがいっきに普及したのも、このウイルスのせいだ。
 ウイルスに汚染された箇所に触れた手で、うっかり口元や目の付近を触ると感染するし、くしゃみや咳などの飛沫でも感染する。大声をだすのも、唾が飛ぶのでよろしくない。
 感染拡大を防ぐためには、とにかく自分や家族以外の人間とは距離を置き、直接触れ合わず、誰かが触れたものにも、消毒するまではなるべく手を触れないようにするしかない。マスク、消毒用アルコール、ゴーグルを持ち歩く人も増えた。都会でガスマスクを装着した人を見かけるのも、珍しくない時代になったそうだ。
 そうして、人類はやがて超潔癖症になり、恋愛するのも難しい状況になった。
 彼女のように、グローブの上からでないと手も触らせてくれないし、キスもバイザー越しの形ばかりのキスしか許してくれない。
 セックス? いやはや、冗談だろう。
 こんな状態が続くと人類が滅ぶので、頭のいい連中が、パートナーを選ぶためのシステムを作った。
 パートナー獲得を前提にした交際に入る際には、あらゆる感染症や抗体の有無などの検査を受けねばならない。相手を選ぶ方法は二種類ある。ひとつは、人工知能が選んでくれるのを待つ。もうひとつは、こちらが相手を選び、ふさわしいかどうか、人工知能の許可を得る。相手は老若男女なんでもありだ。そこは問題ではない。どちらにしても、本人たちに拒否権はある。ただ、いちど拒否すると、次の相手を選んでくれるまで待たねばならないわけだ。
 たいへん面倒なシステムだった。
 今この星に、自由恋愛などないも同然。たったひとつのウイルスが、社会を変えてしまったのだ。
 しかも、公の場での飲食の際には、まるで宇宙食のような密閉容器を使う習慣が生まれた。喋っているあいだに唾液が飛んで入るのを避けるためだ。
 超潔癖症。
 おかげで、ちょっとした薬物を、デートの相手の飲み物に注ぐこともできなくなった。

 私は自分のクルマに乗り込み、ゆっくり走るように人工知能に命令して、通りを歩いていく少女たちを物色した。
 バーから数キロ先に、高校生らしい少女たちが3人、連れ立って歩いていた。みんなバイザーつきのヘルメットをかぶっている。色鮮やかなの、形の面白いの、アニメのキャラクターを模したもの、デザインはさまざまだ。今では、ヘルメットもファッションの一部になった。
「やあ、こんにちは」
 声をかけると、彼女たちはバイザー越しに、にこやかな笑みをこちらに向けた。
「こんにちはー」
「どこに行くの? 送ってあげようか?」
「大丈夫ですよ、私たち、家が近いので」
「そう? 良かったら、ケーキでも食べに行かない?」
「えー、知らない人のクルマになんか乗る子は、今どきいませんよ」
 ケラケラと笑っている。私は、もう一押ししてみることにした。
「おじさん、さっき彼女にフラれてガッカリしてるんだ。良かったら付きあってよ。何でもご馳走するよ?」
「やだなー、そんなことしたら、法律違反ですって」
 少女たちは笑いさざめいた。
「そうですよ。おじさんくらいの年齢になれば、ちゃんとしたパートナーがいるはずですよね。そんな人のクルマに乗ったら、私たち叱られちゃう」
「そうそう。どんなウイルスや菌をお互いに交換するかわかりませんし」
「そんな堅いことを言わずに」
 微笑みかけたが、いささか哀願口調になったのは否めなかった。
「おじさんと私たちが長いこと喋るのだって、クリーン法違反ですよ。おじさんのパートナーはどこにいるんですか?」
「おじさんにはまだ、正式なパートナーがいないんだよ」
「えっ、その歳でパートナーがいないなんて、何か問題があるんじゃないですか?」
 女の子たちにドン引きされて、私はひるんだ。
「いや、そういうわけでは……」
「ねえ、このひと変だよ、もう行こう!」
 女の子たちはこちらを睨んだ。
「あんまりしつこく付きまとうと、通報しますから!」
 私は舌打ちし、クルマの窓を閉めてスピードを上げて走り去るよう指示した。

 本当に、生きにくい世の中だ。
 特に、私のような連続殺人鬼ーーの素質を持って生まれてきた人間にとっては。

 これまで人工知能が私のパートナーに選んだのは、精神科の医者と、警察官だった。ふたりとも、私としばらくつきあった後、「パートナーを逮捕したくないから」「24時間、治療にあたるのはいや」と言って、向こうから断られてしまった。
 彼女たちには、私の願望が透けて見えたのだろう。
 私は、血が好きだ。
 パートナーの身体を刃物で切り、吹き出す血に身を浸したい。
「コロナ以前」の社会に生まれていれば、私はきっと、「シリアルキラー」と呼ばれるタイプの犯罪者になっていたはずだ。 
 だが、この社会でシリアルキラーを目指すのは、たいへん困難だった。

 なにしろ、超潔癖症だけに、飲み物や食べ物に睡眠薬などをしかけることも難しい。直接、触れ合うこともできない。全員がひどくガードが堅い。
 物陰にひそんで、ひとりで歩いている誰かを背後から襲う、のも無理。なぜなら、ソーシャル・ディスタンスを守らせるため、家族以外の人間の半径二メートル以内に近づこうとすると、お互いのヘルメットから警告音が発せられるからだ。

 そして、もうひとつ大きな問題があった。
 それは、私自身だ。
 私自身も、この超潔癖症の時代に生まれたのだ。
 血は見たい。飛び散る血液。吹き出す真っ赤な血潮。だが、他人の血に含まれる恐れのある、ウイルスが怖くてしかたがない。ほんとうはキスするのも怖い。唾液のなかに、どんなウイルスがいるかと思うと--。

 そんなわけで、私はいまだパートナーも持つことができず、シリアルキラー「未満」のまま、たったひとり、獲物を捜して、夕方の街をさまよい歩いている。夜遅くなると、つい羽目を外してソーシャル・ディスタンスを守らない人間が現れるので、午後7時以降の外出は禁止されているのだ。
 シリアル・キラーにとって、生きにくい世の中になってしまったものだ。