見出し画像

【現代麻雀への道】31 警察は麻雀をどう見てきたか

ようこそ警察へ! 雀荘を開きたい方

現在、自分で麻雀荘を開きたいと思ったら、警察の許可が必要になる。

どこかの麻雀大会に出たらラッキーにも優勝! 賞品として全自動卓をもらってしまった。よし、ならば雀荘を開いちゃおう!というわけにはいかないのだ。

この許可を取るのがなかなか難物だという。物件が決まらないと申請できないが、申請してもすぐに許可はおりない。そこで、数カ月分の無駄な家賃を払うハメになったりする。

雀荘は遊技場の一種として、風俗営業法によって管理されている。そのため小中学校が近くにあってはいけないとか、病院のそばは駄目だとか、いろんな規制がある。

しかし風営法ができたのは昭和23年のこと。それ以前の麻雀荘は、麻雀を博打と見るかゲームと見るか、当局の揺れ動く見解の狭間(はざま)を漂ってきた。

許してくれない? 開いちゃった雀荘

昭和5年、とある麻雀好きな男が東京三田の慶応大学前に麻雀クラブを開きたいと警視庁に申請を出した。

当時の麻雀荘は今でいうベンチャービジネス。そんな商売の区分はないから、当局としても認可しようがない。しかし現場の警官はそんな事情をわかってくれない。「ん? 許可を取っておらんのか。それでは営業を認めるわけにはいかんぞ」となる。

当時、ブームに乗り、数多くの麻雀クラブがオープンしていた。こういった「できちゃった結婚」ならぬ「開いちゃった雀荘」は、現場の警官と中央当局の板挟みになって苦しんでいた。

警視庁側でも、前例のないことだから慎重にならざるを得ない。そこで警視庁の防犯課長は有識者に相談することにした。

白羽(しらは)の矢が立ったのは当時の麻雀界を代表する浜尾四郎子爵。浜尾の意見はこうだった。

「こんな面白い遊びが家庭に入り込んだら、燎原(りょうげん)の火のように広がるに決まっている。そうなる前に玉突き屋と同じように許可した方がよい」

家庭には持ち込まず外でやれということは、大人の男がやるならいいが女子供にやらせるなということだろう。戦前らしい発想だ。

どっちが賭博なの? 麻雀vs花札

さて、許可が本決まりになったころ、今度は花札クラブの営業許可が浅草の業者から申請されてきた。その言い分はこういうものだった。

「中国の博打をやらせる麻雀屋を許可するなら、日本の博打である花札のクラブも認めるべきである」

当時は任侠(にんきょう)と博打に生きる博徒(ばくと)が当たり前のようにいる時代だった。だから博打に対する誓察の取り締まりも厳しかった。

その主張に浜尾はこう応えた。「麻雀は博打でなくゲームである」と。

警視庁ではその主張を認め、麻雀荘の営業は認めながら、花札クラブ開設は却下したという。こうして開いちゃった雀荘はなんとか籍を入れることができたのだ。

しかし時代は下り、日本が戦争体制に入っていくと賭事に対する圧力が強くなる。昭和15年になると雀荘は壊滅していた。

麻雀は伝来当初から、中国博打として警察にマークされてきた。戦前に限って言えば、麻雀がゲームとして認められたのは入籍時だけだった。

今から振り返って

警察が麻雀を博打として取り締まるのって、批判的な扱いで取り上げられます。つーか、そういう扱いをしてるのは俺か?(;^ω^)

でもね、昭和30年代くらいまでの状況としては、警察はヤクザから庶民を守ってくれた側面が大きかったみたいです。

ぼくが読んだことある資料では、これは麻雀とは直接は関係ないんですけど、千葉県のどこか田舎の話。昭和30年代くらい。

ヤクザが地元の人(農民や漁師)を無理やり博打の場に呼びます。嫌がる人たちに、いろんな難癖をつけて無理やり博打をやらせるわけです。やればだいたい負けます。しかも途方もない借金を背負わされます。
すると追い込みがすごいわけです。そうして家や畑を取られた人多数、自殺した人多数。
昔のヤクザってそういうもの。これが博徒の実態だったと。

考えてみりゃ、昔の貧しい時代に働くことなく暮らしてた人たちは、誰かにたかってたわけです。たかる相手が権力側ならともかく庶民側だったら、たかられる側も貧しいので暴力的にたかることになります。

こういう話を読むと、昔は賭博罪が重要な罪(年間に数万件で検挙数全体の3分の1くらい)で、警察が博打に目を光らせていたのも、庶民を守るものだったとわかります。

今では賭博罪って年100件未満になりましたから、実質的にはほぼ消滅してると言っても過言ではないです。

このシリーズ(有料版)はこちら↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?