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【企画展】『日本のシュルレアリスム』/台湾映画『日曜日の散歩者』


企画展『シュルレアリスムと日本』


 京都文化博物館では、企画展『『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本』を開催している。
会期: 2023.12.16(土) 〜 2024.2.4(日) 途中展示替え有り
URL: 『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本 - 京都府京都文化博物館 (bunpaku.or.jp)

 アンドレ・ブルトンがフランスで『シュルレアリスム宣言』を出版してから100周年を記念する本展覧会では、日本のシュルレアリスムの絵画と写真を展示する。
 変形された人物や事物、非現実的な画面構成、奇抜な色彩や無機的なタッチなど、シュルレアリスムの特徴を捉えた作品が並ぶ。「幻想的」とも形容されるシュルレアリスムだが、本展では個別の作品に対する解説は多くない。展示室を歩き回りながら、絵画の背後にあるものを想像し、楽しい時間を過ごすことができた。同時開催の関連展示「シュルレアリスムと京都」では、個々の作品に詳しい解説がある。

 シュルレアリスム関連団体や画家については図録に詳しい解説がある。図録では九州や京都など地方の動きも紹介し、画家たちが戦争の波に飲み込まれていった歴史を描く。運動の背景から核心に迫り、地方での運動や現存作品がない画家の紹介まで織り込む。中央画壇や美術市場の評価に還元されることのない動きを詳しく取り込むことは、フランスを中心に展開した運動の日本という「周辺」での動向を探る上で貴重なものだろう。
図録: 速水豊、弘中智子、清水智世編著『『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本』青幻社、2024年。


台湾映画『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』


 ここで思い出すのは、2015年の台湾映画『日曜日の散歩者』である。
 原題:『日曜日式散步者』
 監督:黄亞歴(ホワン・ヤーリー)
 2015年制作、台湾映画。
 日本では2017年に公開。配給は太秦。
 2016年 金馬賞最優秀ドキュメンタリー賞受賞

 同作品は台湾の古都・台南で1934年に結成された詩社「風車詩社」を追うドキュメンタリーである。日本統治時代に世界的なモダニズムの息吹に触れ、日本文壇の周辺としての台湾文学という地位に葛藤しながらも、日本語によりシュルレアリスムの詩作を試みた詩人たちの足跡を追う。
 作中では詩人たちの作品の朗読と、当時の再現映像とともに、詩人たちが影響を受けたと思われる同時代の西洋や日本のモダニズム文学や絵画が引用される。たとえば、文学では横光利一の「頭ならびに腹」や、春山行夫「白い少女」、ジャン・コクトー「子さらい」、映像ではジガ・ヴェルトフ『カメラを持った男』、衣笠貞之助『狂つた一頁』などである。絵画ではダリやマグリットの著名なシュルレアリスム絵画とともに、日本の古賀春江や靉光が登場する。


 今回、企画展『シュルレアリスムと日本』では映画に引用された絵画が複数展示されており、初めて映画を観た時の、1930年代モダン都市の空気に吸い込まれるような感覚を思い出した。
 まず第1章のはじめに展示されている東郷青児『超現実派の散歩』は映画でも登場する。三岸好太郎『海と射光』、靉光『眼のある風景』、平井輝七「月の夢想」が続き、日中戦争を題材にした時局的な作品、難波香久三『蒋介石よどこへ行く』も展示されている。

東アジア・モダニズムの広がりを探る

 
 日本と台湾は、モダニズム、シュルレアリスムという世界的な動向から見ればともに辺境の地位にあり、文学の領域ではその達成を疑う見方もある。
 たとえば、同映画のパンフレットでも岸田國士氏は『日曜日の散歩者』について「説明も解釈もなく、時間差コラージュふうに継起する映像は、まさにシュルレアリスム的なものだ」と賞賛しつつ、風車詩社の詩については「この映画でつぎつぎに引用・朗読される戦前の台湾と日本の詩のなかには、実際、シュルレアリスムないし超現実主義を自称していたものもふくまれる。ただ、多くの作品は広い意味のモダニズムにとどまっていて、シュルレアリスムは表面的な模倣にすぎなかったこともわかる」と評する。
(岸田國士「シュルレアリスム映画の可能性」『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』パンフレット、太秦、2017年、12,13頁。)
 
 日本と台湾のシュルレアリストのジレンマは、東アジアの近代に共通するコンプレックスに行き着くだろう。中心のトレンドをいかに摂取してもよくできた模倣にしかならず、独自性を追求すれば亜流とみなされる。

 しかし、今回の企画展でもそうだが、モダニズムの一愛好者としての自分は、日本や中国、台湾という周辺で産み出された作品を、表面性や模倣という限界も含めて、モダニズムの魅力や多様性を伝える実例として楽しんでいる。
 通俗文学の例で恐縮ながら、シャーロック・ホームズ・シリーズには今でも様々なパスティーシュが発表されている。ファンの中にはあくまでコナン・ドイルの原作しか認めない人から、作中のキャラクターが登場しさえすればどのような作品でも楽しめる人まで、様々なスタンスがあるという。たとえグラスやコースターにホームズのシルエットが印刷されているだけのカフェやバーでも、足繁く通うファンもいるという。

 文化には中心を志すだけでなく、広がりを楽しむ姿勢があっていいと思う。われこそは中心たるべきと唯我独尊に走るのではなく、中心や起源を否定する偶像破壊に明け暮れるのでもなく、厳としてヒエラルキーがある世界で、それでも相互に認め合う批評は可能だろうか。その上で中央から忘れられた佳作を、現代の読者に紹介することが、理解を広げる道になるだろう。

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