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DDの真髄~積極的な推し増しをめぐる理性と現実の相克~

アイドルオタクをやっていれば、「単推し」が好まれるということは言うまでもない。アイドルの立場からしても、オタクの目線からしても、「単推し」は気持ちの良いものである。

たった1人の推しを愛で、応援し支えるというかけがえのない尊い行為は、何にも代え難いだろう。「なろうとして」ないし「やろうとして」成し得る行為ではない。結果「そうなっていた」のが、「単推し」と言える。

本稿は、決して「DD」を賛美することを意図して書かれたものではない。「単推し」という姿勢と理念と比較し、「DD」が殊更勝って(まさって)いるという客観的事実を羅列し、理詰めにしようとするものではない。

「DDという生き方」を続けていると、それ自体が、言わば「目的化」していることもしばしばあるのだが、決して事前に「推し」の数に定員が設定されているわけではなく、それこそ先の「単推し」と同じように、結果「DDになってしまった」という論理展開を(時として)導かざるを得ないこともまた事実であり、認めざるを得ないのである。

悔しいかな、「単推し」を続ける中でしか気づけない「単推し」の良さがあるのであれば、翻って「DD」を続ける中でしか気づけない「DD」の面白さと姿勢を考えてみたい。「DDという生き方」の中に日々複層的に重なり合っている「単推しを希求する想い」と「DDを楽しもうとする姿勢」を、今逆照射することで、オタ活の持つ「好き」の射程の広さを今一度捉え直すことができよう。

①2つの「好きキャパ」

まず前提として共有しておかなければならないのは、DDにとって「好き」という感情の総キャパ(=体積)が「100」とすると、Aちゃんへの想いが「50」、Bちゃんへの想いが「30」、Cちゃんへの想いが「20」とはならないことである。すなわち、総キャパが「100」とすると、AちゃんからCちゃんへの想い全てが「100」なのである。

この時、純粋な足し算をすると、総キャパは「300」になる。ここで問題となるのが、DDにとってこの「好きキャパ」というのは、「想い」の部分と実際的な資金力や時間の部分では相互にリンクしながらも、キャパを共有していないということである。

つまり、実際に現場に行ける時間、推しに費やせる資金は有限で、無限ではない。この時、上記の総キャパを「100」としたときの単純な「割合」の理論が成立するのである。行ける現場、撮れるチェキの枚数に差が生じるのは、当該側面において総キャパの中で割合が決まっているからである。

とはいえ、「想い」の部分は全員「100」でも成立してしまうのである。それは一人として全く同じアイドルの人なんていないということに尽きる。違った個性で魅了するアイドルたちに対する「好き」という感情にも様々な色の濃淡があり、こちらからの見え方も異なる。

そもそも「好きキャパ」に「想い」と「時間/資金力」の2種類があることを知らなければ、DDではない人からはなんでそんなにたくさんの人を推しているのだろう?明らかにAちゃんよりもBちゃんが好きなのにAちゃんも大好きと言っているのはなぜだろう?という事態が生じるのである。

②「推し」の相対化と魅力の再発見

Aちゃんを好きになり、その後でBちゃんを発見し、挙句の果てにCちゃんにも手を出していく…。多くのDDの歩む道であるが、これを否定的に捉えてしまい、推し増しに罪悪感を覚えてしまうのは非常にもったいないと思われる。

一人の女性を愛し続けることが望ましい一方で、新たな推しを発見することで、今までの推しの魅力に改めて気づくことがあることも忘れてはならないだろう。

当然ながら、推しを増やしすぎることによって、今まで推していたアイドルへの眼差しに光がなくなってしまうことも起きる。しかし、「好きキャパ」が一定以上保たれている以上、新たに出会ったアイドルとの相対化を通じて、今まで気づかなかった推しの魅力や表情に気づくことも多いのではないだろうか。これは決して、安易な比較を通した優劣の発見や固定化ではない。そのような愚劣な行為に帰結してしまっては、推し増しの行為自体に泥を塗っていることと同義である。

そうではなくて、新たに推しとなったメンバーに着目する反面、今までの推しのさりげない変化や盲目だった魅力、それもミクロな部分を知ることが少なからずあるという点である。従来、顔やダンス/歌といったパフォーマンスなどの言わば表面的な「見える部分」の魅力を見ることだけに満足していた姿勢から、その人のアイドルに懸ける想いやアイドル活動をする上で大切にしていることなど、「内面的な魅力」にも目がいくようになるのである。

逆に、「知る」ことを通して、今まで当たり前のことのように思っていたことの「知らない面」に気づき、改めて今までの推しを新鮮な、純粋な気持ちで見つめてみる契機にもなるだろう。「知る」ことに慣れ、増える一方通行の情報の渦を消化していく中で、「知らない」ことに対する気づきは、DDを進める中でかけがえのない財産となる。「そういえば知らなかったな、あの子のこと」、この気づきこそが、自身の健全なDDという生き方の原点となり、また様々な子の色々な魅力を見出すメガネの一部になるのである。

DDとは幸せな行為である。「好き」がたくさんあるオタ活は、言うまでもなく、「楽しさ」もたくさんあり、「幸せ」もたくさんある。

推しが卒業する時の心身的なダメージのリスク分散でDDを推奨する人もいるかもしれない。しかし、そのような消極的な気持ちでDDを邁進していいのだろうか。

DDにしか分からない、見えない景色がある。たくさんの推しがいるからこそ、支えられる日常があり、その楽しみ方の選択肢も用意されている。

DDを正当化するのではなく、DDという生き方をどうすれば楽しめるか、DDである自分を自分でどう認めてあげられるか、その想いで筆を執った。

たくさんの笑顔を見るために、今日もDDでいたい。

(終)

#アイドル #オタク #オタ活

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