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モンスター・イン・キャッツ・クロージング◆#3◆



 ハラコ・ストリートからやや離れた場所にある安アパートの一室。平べったいフートンの中で、カガシは起床時刻を迎えた。
 停止させた目覚まし時計を手に取り確認する。就寝時間は遅かったものの、概ねいつも通りの時間だ。体調も悪くは無い。寝不足という感じもそこまで無い。
 養父を勤め先の社長に持つカガシだが、現在はこのアパートで一人暮らしをしている。プライベートの時間を互いに気兼ねなく過ごせるようにとのハギヲからの提案に、カガシが同意した結果だ。尊敬する父に立派な大人と認められたようで嬉しかったし、同居していると自宅での会話まで仕事の話になりかねないと思ったのだ。
社長の息子が住むには些か貧相に見える住居だが、カガシの収入を考えればこんなものだろう。ハギヲは己の会社に迎えた息子に対し、一切の特別扱いをしなかった。カガシも、それを当然のことと受け入れていた。公正な父が、カガシは好きなのだ。
カガシは軽い朝食を済ませ、身支度を整えると、いつも通りの時刻に出社した。
「ドーモ」
「ドーモ」
 社屋である四階建てビルに到着すると、入口の警備員とアイサツを交わし、中へ入る。一階は警備員や清掃員など、外部業者の詰め所と製品倉庫。二階から上がオフィスとなっている。二階にある自分のデスクに荷物を置き、フロアの壁掛け時計を確認。午前5時。ヤノ紳士服の始業開始時刻は午前9時である。当然と言えば当然だが、カガシの他に、出社している人間は誰もいない。
 カガシは少しの間、準備運動めいて腕や脚、背筋の屈伸を行う。それを終えると、フロア隅の清掃ロッカーからほうきとチリトリを出し、清掃を始めた。
 彼は重役ではないものの新入社員というわけでもなく、社内ヒエラルキー的にも雑用を押し付けられるような弱い立場には無い。そもそも清掃は契約業者が行っているため、本来ならカガシが一人で清掃を行う必要は全く無いのだ。カガシ自身もその程度のことは十分に理解していたが、敢えて考えず、無心に手を動かし続ける。
 部屋全体を掃き終えたら廊下を。二階の清掃が終われば三階に移動し、同様に清掃を行う。それを終えたら四階へ。四階は大人数用の会議室、物置と続き、最奥が社長室だ。社長室は施錠されており立ち入ることが出来ないので、廊下と会議室と物置を済ませて清掃は終了である。
 会議室の清掃を手早く終え、物置へ入る。物置には業務で使用する消耗品の予備や販促グッズ、使用されなくなり処分を待つ古いオフィス家電、その他諸々が雑多に置かれている。
いい加減に整理すべきだと、きっとここに足を踏み入れる誰もが思っていることだろう。しかし実際に行動に移す者はいない。下手に物の配置を動かすと面倒なことになるのが明らかであるためだ。きちんと整理するならそのための時間と、人手が必要だ。それは今ではない。大人しく床の埃をほうきで集める。
「ン……?」
 ふと、何らかの違和感を覚え、カガシは室内を見回す。なんだろう、いつもと何かが違うような。きょろきょろと視線を動かした後、違和感の正体に気が付いた。壁に掛かっていた、「定時」のショドーの掛け軸が無い。本来掛けられていたあたりを確認してみると、案の定、それは床に落ちていた。壁に歩み寄って確認してみる。どうやら紐を掛けていた鋲の針が錆びて折れたらしい。放っておいてもいいのだが、あまり気分が良くない。カガシは生真面目な男だった。
「画鋲の予備もここにあるのかな……」
 消耗品の予備は総務の人間の手によりオフィスフロアにも一定の数量が用意されている。そのためカガシは、普段この部屋に物を取りに来ることが殆ど無く、何がどこに置いてあるのかを把握していない。積み上げられたオフィス用品の段ボールにそれらしいものが無いか探してみるが、何も書いていないものが多い。
 やはり近いうちに整理するべきだ。肩を落としながら、近くに積み重なった開封済みの段ボール箱のいくつかを覗き見た。マスコットキャラクターの描かれたボールペンやタオルセット、昨年の日付が書かれた卓上カレンダーなどが顔を出す。
「他の会社のノベルティだな。このへんには無いのか?」
 呟きながら、一応下にある箱も確認しようと段ボール箱の山を崩す。他の箱の中身も似たようなものだったが、一つだけ、封のされたものがあった。未開封というわけではない。一度開封された後、再度ガムテープで閉じられたようだ。最初の開封時にテープに持って行かれたらしく、段ボール表面の紙が薄く剥がれている。
何故これだけ閉じ直されているのだろう。カガシは特に深く考えず、軽い興味で封をしているガムテープに手をかけた。どうやら開閉の都度、同じガムテープで封をし直しているらしい。粘着力の落ちたガムテープはあっけなく剥がれ、箱の中身をカガシに晒した。
「エッ」
 カガシには、それが何であるのかがわからなかった。理解出来たのは、それが大量の、小袋に詰められた何かの粉であるということだけだ。何の粉であるかはわからない。薬物ではないかもしれない。何ら違法性の無いものかもしれない。違法な薬物であったとして、父とは関係の無いものに決まっている。カガシは己に言い聞かせた。言い聞かせたが、とてつもなく、嫌な感じがした。昨日の帰宅時にも感じたような悪寒が背筋をざわめかせる。吐き気が襲ってくるのを堪えながら、崩した段ボール箱の山を戻すと、落ちた掛け軸もそのままに、カガシは逃げるように物置から出た。

「カガシ=サン、社長がお呼びですよ」
「アッハイ」
 早朝の会議と取引先との打ち合わせを終えたカガシに、社長室へ来いとの指示が伝えられる。自分のデスクに腰を下ろすことも出来ぬまま、カガシは社長室へ向かった。
扉の前で身なりを整え、深呼吸してから、木製の扉を二度、ノックする。育ての親が相手とはいえ、この部屋に入るのは緊張する。厳格なハギヲは公私混同を嫌い、業務中カガシに対し家族として接することはけしてしなかった。カガシも同様に、この建物の中ではハギヲを「父」とは呼ばない。あくまで社長と社員の関係だ。少し前までは、そうだった。
「カガシです」
「入れ」
「失礼します」
重い扉を開き中に入る。ハギヲは棘のある眼光で入室するカガシを迎えた。カガシは扉を閉めると、指示されるまでもなく鍵を閉めた。
「下の階の物置、掛け軸が落ちていたようだが、あれは何だ。床の清掃も中途半端だったな」
威圧的な眼光と声音がカガシを射竦める。ここ最近、ハギヲの前に立つと、カガシはどうにも、上手く言葉を発することが出来なくなる。以前はこんな風では無かったのに。何か上手い言い逃れは無いか、考えを巡らせようとする頭を制する。カガシは生真面目な男であったし、誠実さを美徳としていた。そして、その価値観を教えたのはこの父だ。だからこそ、父の前での不誠実など、己に許せる筈も無かった。
「鋲が折れて落ちていたので掛け直そうとしたのですが、探しても新しい画鋲が見つからなかったので、後で直そうと思いそのままにしておきました」
 可能な限り正直に証言したが、粉のことは言えなかった。どう言えば良いというのか。「あの粉は違法な薬物ではありませんよね?」などと訊くのか?馬鹿げている。父は立派な人間だ。疑う余地など無い。いや、そもそも、こんなことを考えている時点で、私は父を疑っているのではないだろうか。暗澹たる気持ちになりながら、カガシはハギヲが壁に立てかけられたシナイを手に取るのを、漫然と目で追った。
「掃除すら満足に出来んのか、貴様は!」
「グワーッ!」
 鋭く乾いた音と共に、ハギヲの手に握られたシナイは容赦無くカガシの胸を打ち据えた。よろめいたカガシの肩に、更にシナイが浴びせられる。
「グワーッ!」
「このクズが!貴様のような出来損ないを息子と呼ばねばならんとは、実際恥辱だ!」
「グワーッ!」
 身を小さくしながら、カガシは浴びせかけられる暴言とシナイに必死で耐えた。父がこうして自分をシナイで叩くようになったのは、いつ頃からだっただろうか。少なくとも、半年ほど前まではこうではなかったように思う。父は他の社員に接するのと同じように、厳しく、温かく、社会で働くということについて教えてくれた。カガシの自慢の父は、就職してからも自慢の社長だった。
 それが、いつからかカガシに対して辛く当るようになった。些細なミスを怒鳴り散らすばかりか、明らかに理不尽なこじつけでカガシを罵倒した。「始業前に全フロアの清掃を一人で行え」などといった理不尽な命令を下すようになった。最近ではこのような暴力すら日常となっている。恐らく自分にだけなのだろう。カガシの見る限りでは、カガシ以外の人間には全く以前の通りに接しているように見える。
 何か、仕事で上手く行っていないことがあるのだろう。そのために苛立っているのだろう。このような状況にありながら、カガシはそう思っていた。思い込むように努めた。私はまだ青二才だから、父の仕事上の悩みを解決することは出来ない。しかしこうしてそのストレスの捌け口になれるのであれば、それは幸せなことだ。
そのような思考で自分の心を守っていた。そうするしかなかった。それほどに、父の存在はカガシにとって大きかった。他の誰から蔑まれようとも、父にだけは、見限られたくなかったのだ。
 身体を傷付けられることについては、実際もうそこまで気にならない。青痣など放っておいても消える。そんなものよりも、父の口から放たれる人格否定めいた暴言の方がよほど辛い。父が自分を出来損ないと呼ぶのなら、実際自分は出来損ないなのだろう。こんなに立派な父に育てて貰えたのに、どうして自分は出来損ないなのか。頭が、浴びせかけられる暴言をそう処理してしまう。心が砕けそうだった。シナイの雨の中で、カガシは弱々しく耳を塞いだ。

「火の用心!火の用心!」
また火事らしい。遠くの火事などどうでもいい。今は一刻も早く帰宅し、とっとと寝てしまいたい。今日はとても、とても疲れた。
 生温い風と共に耳に届く警告合成音声を、カガシは呆然と聞き流す。あの折檻の後、どのように仕事に戻り、退勤したのか、あまりよく思い出せない。それでいて明日やるべき業務の内容はしっかりと頭に入っているのだから笑えてくる。
「そういえば、明日は掛け軸、直さないと……」
 掛け軸を元の壁に掛け直して、……そうだ、あの白い粉はどうするべきだろうか。見なかったことにして、奥の方に隠しておくのはどうだろう。気分の悪いものは残るが、自分にはあれが何か判断できない。あんなもののせいで父とこれ以上余計な不和が生じるくらいなら、全て忘れてしまった方が良い。
「いや、待てよ」
 ……あの粉は、いつからあそこにあったのだろう。
 靄に覆われた頭の中が、急に晴れるような感覚があった。
自分は父の人が変わったのを仕事で上手く行っていないせいだと思い込もうとしていた。だが、あの粉が関係しているということは無いだろうか。例えば、考えたくもないが、もしあの粉が違法薬物であったなら、何故そんなものが会社の物置になどあるのだろう。何のために?
善良なサラリマンであるカガシに、そういったシチュエーションの心当たりは多くない。
「……ヤクザ、か?」
もしかして父は、ヤクザか、それに近しいものに脅されているのではないだろうか。そのせいで精神的に不安定になっているのではないだろうか。考えるだに恐ろしいことではあるが、しかし、カガシは何か、胸の奥に希望のようなものが芽生えるのを感じた。もしそうであったなら、それを解決しさえすれば、父と以前の関係に戻れるのではないか、と。
数日前までの自分なら、こんな希望は抱けなかっただろう。善良なネオサイタマ市民にとって、ヤクザは恐怖の対象である。ヤクザ絡みの問題を解決出来るなどと、考えもしなかったに違いない。しかし、今は違う。
「アキベ=サンに、相談すれば……」
 昨晩のアキベの、真っ直ぐで力強い言葉を思い出す。どうにかなりそうな気がした。いや、どうにかなるよう、最善を尽くさねば。父のために、何より自分のために。
 しかしまずは、自分に可能な範囲で、ヤクザが父に接触しているという確証を手に入れなければ。あの粉だけでは弱い。
明日はいつもより三十分、早く出勤することにしよう。調べるのだ。父が今、どのような状況にあるのかを。そうと決まれば速やかに帰宅して就寝しなければ。
歩を速めようとしたカガシは、しかしふと、その足を止めていた。理由は無い。なんとなくだ。そのままなんとなく、背後を振り返る。
家屋やビルのシルエットの向こう遠くに、赤々と爆ぜる炎が見える。夜空がその周囲だけ仄赤く照らされ、立ち上る黒い煙は重苦しい重金属含有雲に吸い込まれていた。
予想出来ていた光景だ。最近では見慣れてしまった、火事の光景。
会社からは、遠い。

そこは迷宮と呼ぶに相応しい空間だった。
 通路はひたすら複雑に入り組み、その薄暗さは足を進めることを躊躇させる。黒地の壁に時折走る緑色の01ノイズ以外には、動くものの気配も無い。
 そんな通路を、散歩でもするかのような足取りで歩む人影が、一つあった。円環状のサイバーサングラス、ウドンめいて頭から無数に伸びるLANケーブル、そして、黒いニンジャ装束。
迷宮の怪物、ミノタウロスと形容するには些か貧弱な身体つきだが、怪物であることに変わりは無い。
 この迷宮は怪物――ソウカイニンジャ、ダイダロス――のコトダマ・イメージから構築された空間。この迷宮の通路こそが、ネオサイタマ中に張り巡らされた、彼が掌握可能な全てのネットワークである。
 やがてダイダロスの論理肉体は一つの扉の前で足を止めた。壁と同じ、黒地の扉には、「セキュリティ担当専用:六」とショドーされたプレート。扉を開き中へ入る。
タタミ二十畳ほどの窓の無い黒い部屋の中央に、ビデオデッキを備え付けたブラウン管テレビが一台。出入り口のスペースのみを残し、四方の壁全てに、迷宮の壁と同じ素材で出来ているらしき棚が設けられている。棚の中にはビデオテープが隙間無く、整然と並ぶ。
 ダイダロスは少しの間、棚の前をうろうろと歩き回る。目当てのテープを探しているらしい。やがて一本のテープを棚から抜き取ると、部屋中央のテレビへと向かった。テープをビデオデッキに挿入し、再生される映像を凝視する。早送りや一時停止を使い、その内容を十分に確認しながら、彼はぼそりと呟いた。
「確かに」
少しして、最後まで再生されたらしく、ビデオが停止した。テープが最初まで巻き戻され、デッキから吐き出される。ダイダロスはそれを元の場所へ戻すとしめやかに部屋から退室し、シックスゲイツ専用のチャットルームへと向かった。




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