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モンスター・イン・キャッツ・クロージング◆#2◆



「火の用心!火の用心!」
 ハラコ・ストリートは中小企業のオフィス街に隣接する飲み屋街である。繁華街と呼ぶには活気が無く、通りに並ぶのは疲れ切ったサラリマンが酒で己を癒すためにあるような店ばかりだ。そのような静かな通りで、今は焦燥感を煽る警告合成音声が耳触りに響いている。遠くからはファイアベルの音も届いていた。
「また火事ですか」
「最近多いですね。怖いです」
 近くで会話するサラリマンの視線の先を追うように、カガシ・ヤノは後方を振り返った。家屋やビルのシルエットの向こう遠くに、赤々と爆ぜる炎が見える。夜空がその周囲だけ仄赤く照らされ、立ち上る黒い煙は重苦しい重金属含有雲に吸い込まれていた。
 カガシは興味薄げに少しの間それを眺めると、再び前を向いて歩き始めた。実際、目で見る限りそこまで大した火事ではない。火元となった建物の周囲にいくらか延焼してしまうかもしれないが、それで終わりだろう。放火か何か知らないが、最近火事が頻発しているせいで消防隊もかなり手際が良くなっているし、何より火元は会社からも遠い。
 遠くの火事などどうでもいい。今は一刻も早く帰宅し、とっとと寝てしまいたい。明日は朝早くから会議があるし、取引先との打ち合わせもある……。
 カガシの勤め先である「ヤノ紳士服」は中流階級サラリマン向けのスーツを中心に衣服の卸売や通信販売などを行う会社だ。創業からはもうすぐ三十年を迎えようというところ。けして大企業といえるような規模ではないが、堅実な仕事で今日まで地道に信頼と実績を積み上げてきた。
 創業者であり現社長であるハギヲ・ヤノはカガシの血縁上の伯父であり、戸籍の上では父親である。幼い頃に両親を失ったカガシを引き取り、男手一つで育てたのがハギヲだった。厳しくも誠実な人格者である養父をカガシは心からソンケイしていたし、そんな人物の会社で働けることを誇りに思っていた。故に彼の会社で働く以上、自分に甘えを許すわけにはいかない。眠気によるケアレスミスなど以ての外だ。充分な睡眠を取り、万全のコンディションで出社しなければ……。
 腕時計を見る。早足で帰れば、今日は日付が変わる前に就寝出来るかもしれない。カガシは一人頷くと幾らか歩を速めた。しかし、この時既にカガシは疲れか、或いは他の考え事に意識を没頭させていたことで、周囲への注意が散漫になっていた。いつもならば避けて通る千鳥足の泥酔サラリマンと衝突してしまう程度には。
「グワーッ!」
 泥酔サラリマンは大げさな悲鳴を上げて路上に転がる。その悲鳴でカガシは我に返った。
「アッ、スミマセン!大丈夫ですか?」
「オアーッ!?ナンスッダテメッアー!」
 倒れたサラリマンを助け起こそうと手を差し伸べる。しかしサラリマンは尻餅をついたままカガシの手を払いのけ、大声で何事かを喚き始めた。かなり酒が回っているようで呂律は回っておらず、内容は聞き取れない。よく見れば目の焦点も合っていないようだ。このままここに放置して逃げ去ることは容易いが、その選択肢はカガシの性格上、取ることの出来ないものだ。ひとまず、助け起こさなくては。酒臭い息を顔に吹きかけられながらも、カガシは不快な表情を見せることなく、サラリマンを嗜めようと努める。
「スミマセン、スミマセン…!とにかく立ちましょう、ね?道の真ん中ですから、ここ」
「ナンサズッテンダー!」
 泥酔サラリマンの激昂は一向に収まる気配は無く、遂には姿勢を低くして謝り続けるカガシの胸倉を震える手で鷲掴んだ。
(殴られる……!)
 一瞬、抵抗を試みるべきか思案したが、すぐさまその考えは捨てる。こちらから手を出すのはまずい。父の息子である自分が、前後不覚の酔っ払いに手を上げるなどあってはならない。このようなくだらないトラブルで、父の会社に泥を塗るようなことがあってはならない……。
「そこまでにしましょう」
 静かな、それでいてはっきりとした声に、カガシは閉じかけていた目を薄く開く。泥酔サラリマンの背後、その肩に手を置く男がいた。高級そうなグレーのスーツに身を包んだ、姿勢の良い、上品な雰囲気の男だ。
「ナン……」
 泥酔サラリマンに怒鳴りつけられるよりも先に、男は数枚の万札をサラリマンの掌に握らせる。今この瞬間までカガシの胸倉を掴んでいた手である。サラリマン自身にも何をされたか認識出来なかったようで、自分の手が握っているものに気付くまで数秒を要した。
万札の枚数を見て酔いが醒めたのか、男の得体の知れなさに恐怖したのか。彼はそそくさと立ち上がると、小さくオジギをして足早にその場から立ち去った。
「……ア、アリガトゴザイマス……」
 呆然としていたカガシも我に返り、男に礼を述べた。男はまるで何でも無い事のように涼やかな笑みを浮かべる。
「イエイエ。災難でしたな」
「では」と一言置いて踵を返そうとする男を、カガシは無意識のうちに呼び止めていた。
「待ってください」
「どうしました?」
「何か、お礼をさせてください」
「そんな、お気になさらず」
「お願いします。せめてお名前だけでも……」
 助けてくれた恩人に対し、ロクなお礼も出来ないのは恥ずべきことだ。カガシは素直にそう考えていた。相手を引き止めてまでこんなやり取りをしていれば、帰宅も就寝時間も遅くなってしまう。だが、それよりも大切なことだ。明日は仕事中に眠くなるかもしれないが、自分がそれに負けなければ良いだけの話だ。誠意を持ってもう一度、カガシは「お願いします」と頭を下げた。
「では、その辺の店で一杯奢って頂けますか?」
 思案の後、男は苦笑交じりにそう答えた。

 男を案内したバーは、養父に連れられ就職前から足を運んでいた、カガシの気に入りの店だった。今は個人客ばかりの様子で、カウンターには数人のサラリマンが席を空けて座り、各々のペースで静かにグラスを傾けている。カガシは慣れた調子でマスターに二人分のサケを注文すると、促されるまでもなく、奥まったテーブル席に男を案内する。腰を下ろした二人はサケが運ばれて来るのを待ってから、名刺の交換を行った。
「カガシ・ヤノです」
「アキベ・ソノエです」
 アキベはカガシの名刺に目を通すと、「ヤノ紳士服の方でしたか」と感心したような表情で言った。
「私もよく御社でスーツを買っていますよ。実際安いのにとても丈夫で、重宝しています」
「ありがとうございます」
 リップサービスだろうということはすぐに理解できた。カガシとて衣服の流通に携わる人間である。アキベが身につけているものが、スーツから靴、鞄に至るまで全てハイブランド品であることは一目で判別がつく。所作も上品で優雅だ。自分の会社が扱っているようなものを、普段着ているということは無いだろう。それでもカガシは純粋に嬉しかった。寧ろリップサービスであったとしても、自分の会社を評価する言葉がこの人の口から出たのが、とても誇らしいことであると感じられた。
「カガシ=サンは、社長のご親族なのですか?」
「はい。社長は私の育ての親です」
「道理で振舞いに品のある方だと思いました。御社の社長は大層ご立派な方であると伺っていますし、カガシ=サンも素晴らしい教育を受けていらっしゃるのでしょうね」
「イエ、そんな。とんでもありません……」
 これも、間違いなくリップサービスだろう。自分の所作など、彼の上品さとは比べるべくもない。理解してはいるのに、どうにも顔に血液が集まるのを止められない。父を褒められたのも嬉しかったし、自分を褒められたのも嬉しかった。ついさっき知り合ったばかりの人間の言葉に、何故こうも舞い上がってしまうのだろうか。
気分の高揚を抑えようと、カガシはアキベの名刺に目を通した。分厚く、仄かに光沢を持った名刺には、アキベの名前の横に「アキベ法律事務所」という文字列と連絡先が記載されている。裏側も確認するが、こちらは白紙だ。事務所の住所は書かれていないようだ。
「法律事務所、ということは、アキベ=サンは弁護士の方なのですか?」
「ええ、そうです。ヤクザ案件を専門に扱っています」
「ヤクザ案件……。ああ、だから事務所の住所が書かれていないのですね」
「ええ、身の安全を守るために、紹介制でやっています。それでもこのご時世ですから、それなりに商売にはなっていますよ」
実際、ドス・ダガーで刺されかけたこともあります。そう言って軽く笑いながら、アキベは脇腹あたりを撫でるジェスチャーをした。まるで天気の話をするような気楽さで言っているが、カガシには想像もつかない世界だ。
「危険なお仕事なんですね……」
「そうですね。しかし、苦しんでいる人を助けることが出来るというのは、嬉しいことです」
 アキベの言葉は静かだったが、真っ直ぐで力強かった。
その瞳を見て、カガシは、この人はソンケイすべき人だ、と強く、疑う余地も無く、感じていた。両親を失った自分に手を差し伸べ、ここまで育ててくれた父と同じように。
父以外の人間に対してごく自然にこういった感情が芽生えたのは、初めてのことだった。それも、ついさっき知り合ったばかりの人間に。微かに覚えた困惑も含め、カガシはそれを喜ばしいことであると受け入ることにした。きっと、それだけこの人が、素晴らしい人間なのだと。
(こんな立派な方に出会えるなんて、私はついている。もっと彼の話を聞きたい)
 心地良い熱を持ち出した身体を鎮めるように、カガシは冷えたサケを喉に流し込む。
「おや、カガシ=サン。どうしたんですか、それ」
「エッ」
 アキベはカガシのグラスを持つ右手首を指し示して心配そうな表情を浮かべていた。先程までシャツの袖が隠していたそこから覗いていたのは、黒紫色の痣だ。カガシは痣を目視すると、小首を傾げ、不思議そうな表情を作ってみせる。
「あれ、何でしょう。気付かないうちにどこかにぶつけたんでしょうか」
「痛そうですね」
「全然、大したことありませんよ。ああ、もうこんな時間ですか。楽しい時間は早く過ぎるものです」
 左手で右手首の痣に触れるようにしながら、カガシは腕時計を見た。そろそろ解散にしたいという奥ゆかしい意思表示である。アキベも自身の腕時計に目をやり、同意を示した。
「本当ですね。いやはや、こんな時間まで付き合わせてしまってすみませんでした」
「イエイエ、助けて頂いたのはこちらですし、寧ろ何のお返しも出来ずに本当に申し訳ないです」
「そんなことはありません。実際、カガシ=サンとのお話はとても楽しかったです。機会があればまた飲みましょう。」
 アキベの言葉に、カガシは心から嬉しげな表情で応える。
「ヨロコンデー。何かヤクザ絡みのトラブルがあった時は、是非相談させて頂きます」
「そんなトラブルに、カガシ=サンが巻き込まれないことを祈っています」
 会計を終えて店の外に出た後、二人は奥ゆかしくオジギをし合い、別れた。
 アキベ=サンは素晴らしい人だ。あんな人と知り合いになれてよかった。私は幸せ者だ。
自宅への道を歩きながら、カガシは考えていた。父を心からソンケイしている。その会社で働くことが出来る。アキベ=サンのような人にも出会うことが出来た。私は幸せ者だ。
おもむろに手首の痣を見る。
「ゴボーッ!」
 堪える間もなく、カガシは道端に嘔吐していた。サケを飲み過ぎたわけではない。寧ろアキベとの会話に夢中で殆ど飲んでいなかったため、ほぼ素面だ。風邪だろうか。きっとそうだ。手も震えている。寒気もする。明日は朝早くから会議があるし、取引先との打ち合わせもあるのに……。
「……ダイジョブダッテ……」
問題無い。きっと、寝てしまえば治る。風邪なんかに、自分の身体が負けてしまう筈が無い。なぜなら自分はこんなにも、仕事に行きたいのだから。会社に行きたくない、なんて、自分が考える筈が無いのだから。父の下で働くことが、私の無上の幸せなのだから。この痣は何の関係もないのだから。私は、私は……
「私は幸せだ」
 蒼白な顔で呟き、口元を持っていたハンカチーフで拭うと、カガシは再び、自宅に向かって歩き始めた。

「カガシ・ヤノか…」
 カガシとは反対方向に歩を進めながら、アキベは先程カガシと交換した名刺を眺めていた。
「調べてみるか」
 アキベは冷えた口調で呟くと、クロスカタナが刻印された名刺ケースに、再度カガシの名刺をしまいこんだ。




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