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俺はもっと男でいていい

明日の講演の準備してたら、無限に思考が拡がって一本書けちゃったわ。

準備しなさい俺。でもグッジョブ。

* * * * * *

大事な友達から、「ヒロは弟みたい」って言われて、めちゃくちゃ、めっちゃくちゃ嬉しかった。

最近は「男友達だと思ってる」とも言われて、思わず泣きそうになっちゃった。

俺は小さい頃からずっと、妹じゃなくて、姉じゃなくて、弟やお兄ちゃんでいたかった。
女友達じゃなくて、男友達でいたかった。
というより、ほんとはそうだって、ずっと知ってた。

最近、結構はっきりと男扱いしてもらうことが増えてきて、自分の思う”ほんとう”と、周りからの認識がピッタリ合うと、こんなに安心して、そのままの自分でいられる自由な感じになれるんだってびっくりしてる。知らんかったわー。

なんせ、超ーーーー楽。

いちいち「違うねん」って思わなくていいの、超ーーー楽。

なにこれ。トランスじゃない人は生まれた時からこんな感じなの?めっちゃいいやんすげーな!!
(ジェンダー面などで周囲との齟齬は大なり小なりあるとは思うけどね!性自認と周囲の認識のズレという一点に限った話ね)

人から正しく(=自己認識と一致した形で)認識され、受容され、扱われることのパワフルさを日々感じる。
これほんますごいよ。
自分はこの自分でいいんやってすごいホッとする。
地に足がつき、自分という存在の輪郭がはっきりしてくる。
あと、シンプルに自信が持てる。
やっぱ人は、他者なしでは「人間」にはなり得ないんじゃないかと思う。


でも、今ほど「男」の自分で生きられるようになるまで、結構な葛藤があった。今でもあるけど。

自分で言うのもどうなん、と思いながら言うけど(言うんかい)、俺は物腰が柔らかい。人当たりがマシュマロくらいにはソフトやと思う。違ってたらごめん。
身体も今すぐ絶対変えたいって感じじゃないし、バリバリ文系やし、車の運転も機械いじりもあかんし、運動苦手やし、仕事も苦手やし、自分が男だっていう自己認識に、なんとなく自信が持てなかった。

だって、『自分が男である』という認識を支える根拠が、「自分がそう思うから」その一点なんやで?
相当強靭な意志がないと、これ一本でやってくのまぁまぁキツい。
流石に色々浴びてると、一瞬、「もしかしたら俺が変なんか?」ってちょっと疑っても仕方ないやろ。いや絶対ちがうんやけど。
でも、人間は関係性の中の生き物なんやから、周りからの扱われ方って、アイデンティティの形成と保持にだいぶ影響ある。

あともうちょっと言うと、俺の感覚だとFtMの俺は、ノンバイナリー(Xジェンダー)の人に比べて、なんていうのかな、罪悪感がある感じがするの。
この微妙で微細な感覚を言語化するのは結構難しいんやけど、それでも大事やから頑張って言うと、自分が男女二元論の中に一応は入れてしまう楽さというか、どちらでもない/ある/揺れるといった自認を生きるノンバイナリーの人たちより、周囲に理解されやすい感じがあるのよね。
あ、体が女の男なのね、って。

セクマイの中でも、一般的な理解のされやすさや受け入れられやすさにグラデーションがあると感じていて、FtMトランスジェンダー/バイセクシュアルの俺は、比較的楽な部類では?って思っちゃうの。だから、大手を振って「男でーす」って、ちょっと周囲を憚って言いづらいっていうか。もっときつい友達いるの知ってるのに、俺だけ男扱いされてスッキリしてブイブイできないっていうか。
これあくまでも俺個人だけに当てはまる、俺の勝手な感覚ね!くれぐれもトランス/バイ一般がそのように考えている訳ではないのであしからず。

この感覚は、講演をしていてたまに出会う、ヘテロ/シスジェンダー(異性愛者で心身の性が一致している人)であるマジョリティの人たちから明かされる、
「マジョリティであることの申し訳なさ、マイノリティの気持ちを本当にはわからないもどかしさや罪悪感、気まずさ」
みたいなものと相似形だなと思うの。
楽してごめんなさい、みたいな。

いやでも仕方ないのよ?
生まれて気づいたらこれだったからさ。
俺も誰も悪くないの。

というか、そもそも男女二元論かつ異性愛主義ががっつり通底してる社会システムの中で、そこに乗れ(ら)ない人を排除したり否定することが問題なのよ。
ただそのままで生きてる個人が、「あなたの苦しみをわからずに楽してごめんなさい」なんて罪悪感なんぞ抱かなきゃいけない道理なんて全くないの。

それに、自分もマイノリティと見なされてきて思うのは、他者を「自分よりも苦しんでいる存在」とみなすことの、無意識の中の傲り…というのかな、それはそれで相手のエネルギーを奪うよな、というのも同時に感じる。
それに、遠慮したところで、他者のしんどさがましになったり世の中が変わるわけじゃないし。遠慮し損やし。
え、この話大丈夫?なんかすごい微妙かつ極めて個人的な感覚の話なんやけど伝わってる??

えっと、とにかく、マジョリティ(というか社会的強者)を自認する者としてあるべき態度は、罪悪感でしょんぼりするのではなく、マイノリティの痛みに自分ごととして連帯し、自分もその人も含めた全ての個人が、その人として生きられる社会を作ることにエネルギーを注ぐことだろうよと思うの。

それは、本来はひとつである俺たちの、分断を許さない態度。
連帯を、夢物語ではなく形にする態度。

社会制度に押し付けられた、幻想の罪悪感に浸ってしょんぼりしてる暇なんてないんですよ。幻想に負けちゃいけない。
俺たちもっとリアルの世界でやることいっぱいあるんだから。

そのための王道かつ最も基本の道は、まずは自分が、正直に自分として生きること、その姿を表現することだと思ってる。

おっ、やっと冒頭の話に戻ってきましたね!いいぞ!

幻想の罪悪感に負けず、他者と自分を比べずに、この自分こそ自分であると、胸を張って最大限自分らしく生きること。

それが、一人ひとりのらしさを励ますことにもなるのだと信じて、俺はこれからも「俺である」ことを磨いていきたい。

もっと、「自分は男だ」という感覚を味わっていい。
もっと、男の自分を表現していい。

自分を徹底して生きることが、自分と違う他者に、本当に敬意を払うことにつながると、信じて。

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