喰えば断絶、恋しや、ふくふく
寒い時期に欠かせない鍋。その中でも高級でしょっちゅう御目にかかれないのがフグ鍋。関西では福に通じるという意味で「ふく」と呼ばれるあのぽんぽこりんお腹。
てっさにてっちり、から揚げにそして〆の雑炊。ふぐ鍋の中でもこの雑炊が一番の楽しみで仕方ない。解いた卵(ときすぎ禁止)を出汁の行き渡った鍋の中に細く細く回し入れ、弱火に変えて蓋をしたら待つこと1分。
最後に浅葱をぱらぱらっと散らし、かきこむこと至福の極み。思い出しただけで芳醇なふぐの味が口に広がる。
そんなフグはいつから日本で食べられるようになったのか。調べてみると起源はとんでもなく昔、弥生時代。
弥生時代の住居跡から折り重なるようにして倒れた何人かの大人と子供の骨が出土した例がある。その傍からフグの骨が出土されていることから、フグを食べて毒にあたって亡くなったのではないかと推測されている。
フグの仲間の多くは卵巣と肝臓、その他の部位に猛毒を持っていて、食べる年に至ることが多いことから「鉄砲(当時は撃たれたら必ず死ぬと言われていた)」とも呼ばれる。春から夏にかけての産卵期に特に毒性が強くなる。冬には旬を迎えるが、この頃にようやく毒性も弱まる。
フグの毒のテトロドキシンは煮ても焼いても衰えることはなく、青酸カリの数十倍とされ、解毒剤もない。
江戸時代にはすでにどこの部分を食べないようにし、取り除けばいいのかしっかりと解明されており、滅多なことでは死ぬことはなかった。ただ、まだ今のようにふぐ調理免許はないので、たまに生半可な知識で捌いた結果、見事に大当たりしてのた打ち回り死んでしまう人もいた。また、自称グルメな人はあえてフグの毒を食べようとした。これぞ、フグの真髄として焼いたり、刺身にして食べるがこれまた見事、大当たり。グルメな人たちにとっては憧れの部位だったに違いない。
フグと言うとすぐに思い浮かぶのは下関。ところがフグ料理は江戸の方が歴史が古く、また本場だとも言われている。江戸湾はフグの餌となる海藻やエビ、カニが豊富だ。高級なものばかり食べているフグの味が素晴らしいのはこれが影響しているのかもしれない。
この頃の食べ方は、皮と内臓を除き、血抜きしたフグを酒に浸してから味噌汁仕立てにしたもの。木枯らしが吹きすさぶ外から店に入り、ふぐ汁を一口すすればとたんに口福ふくふくさま。
ところがフグは町人の魚であり、武士が食べることはなかった。
主君に仕える身で、命を粗末にしてはならない。自分の命はすべて主家のためにある。そんな大事の命をフグの毒で落とそうものならその家は家禄没収、御家断絶の憂き目にあったという。町人が居酒屋や飯屋でフグ汁を食べる姿を横目で見つつ、「お家のため」「武士は喰わねど高楊枝」と念仏のように腹の中で唱えながらやり過ごしたことだろう。
時代は遡り、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、九州に集結した兵士たちの間で河豚を食べる禁止令が出されたそう。もしかしたら武家がフグを食べないのはこれがきっかけかもしれない。
ただ、江戸時代中期になると武士もフグを食べていたらしく、そのせいで値段が上がったと、町医者小川顕道の『虚塚談』には書かれている。
大々的にフグ食禁止令を解いたのは明治の立役者・伊藤博文。下関で河豚のうまさを堪能した伊東が「山口県に限り」という条件付きで解禁の端緒を開いたのだ。明治21年の事である。
ようやく政治を支える立場にいる人間がおおっぴらにフグの旨さに舌鼓を打てるようになったのだ。