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神の庭になる実

寒い季節は炬燵に入って蜜柑を向きながらテレビを見る至福のひと時。

日本の定番風景ともいえる冬の団欒に欠かせないものが蜜柑じゃぁなかろうか。

蜜柑の歴史は古く、神話時代にまで遡る。神の庭に生えていた不老長寿の実として古事記に登場する。日本では、垂仁天皇の時代(皇紀632年)、新羅から帰化した田島間守が垂仁天皇の命を受け、「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」つまり蜜柑を探す旅に出た。荒波をくぐり、荒れた地を歩き、遥か彼方南方の常世國から苦節10年かかってようやく天皇のもとに非時香菓を届けたが、帝は既に崩御していた。田島間守は常世国と気候の似た和歌山の土地に持ち帰った蜜柑の苗木を植えた。これがやがて根付き、和歌山を蜜柑の名産地としたのだった(『日本書紀』より)。

時代は移って室町時代初期、有田市の『糸我稲荷神社』の社伝にこんな一文が残っている。

「橘一樹自然に生え出て、年々実を結ぶ。その味蜜の如し、よって蜜柑と号す」

現代の呼び名である蜜柑はこの頃定まったものと見られる。常世国の実は代地に根を下ろし、実をつけたが、貴族しか食べれない高級品であった。

非時香菓は直径3cmにも満たない小さな実。蜜柑と呼ばれ始めた頃の大きさも現代に比べればすだちくらい。今の大きさになるのは日露戦争以降なので、尚更貴重だったのだろう。

江戸時代になっても蜜柑はまだまだ高級品。江戸時代は温州蜜柑よりも小粒の紀州蜜柑が好まれた。理由は温州蜜柑には種がないから。種がない=家系が途絶える、として歓迎されなかったのだ。

江戸時代前期に活躍した豪商に紀伊国屋文左衛門というお人がいた。彼は材木商として有名になり、投資のビジネスでも成功をおさめ、大富豪となった人物、通称「紀文」。

彼の有名なエピソードで、正月に海が荒れて紀州の蜜柑が入荷されず、高値を呼んだとき、決死の輸送で大儲けをしたとあるが、これはどうやら創作らしい。が、彼はもともと蜜柑は扱っており、正月に合わせて有田蜜柑を従業員総出で前夜から翌日朝4時ごろまで船に積み込み、江戸に運ばせた。せり売り1口15樽、全部で1,500樽もの蜜柑は1樽ポン槍で2両(この頃の貨幣価値は時代によって異なるが1両13万円として考える)。1分1厘の口銭(手数料のことね)を差っ引いたとしても、大した儲けとなる。

’沖の暗いのに 白帆が見える あれは紀ノ国 みかん船’

こんなコマーシャルソングまで作って、吉原で流行らせ、紀文はさらに自分の名を売った。この頃の流行の出発点は粋や知識教養の高さで知られた吉原遊女から始まることが多かった。そのため、紀文は遊女たちにこの歌を流行らせたのだ。一晩で千両もの金を吉原に落としたと言われる紀文。ただ、浪費三昧だけでなくちゃっかりコマーシャルまでしているところがさすが名うてのビジネスマン。ただ、このあと新通貨の流通を巡って大儲けをたくらみすぎ、失敗に終わって没落。過ぎたる欲は人を滅ぼすのですのね、やっぱ。


1596年に中国で発行された『本草網目』には蜜柑の効能が載っている。胃腸の働きを活性化して、食欲を増進させる効能がある。また、渇きを止め、体液を生じて潤すなど、水分代謝を整える作用もある。

古くから蜜柑の皮を乾かしたものを陳皮と呼び、漢方の生薬としても使われてきた。歯痛・解熱止めにも用いられていた。既にこんなことが江戸時代にちゃんと理解されており、医術に用いられていることにちょっと驚き。

陳皮は七味唐辛子の中に入っており、あたしたちは知らず知らずに蜜柑を口にしている。また、軽く干した蜜柑の皮には天然のワックス効果もあり、床を磨くのに、鍋を磨くのに、江戸時代から愛用されてきた。

すごいぞ、陳皮。えらいぞ、陳皮。

でもやっぱ、果肉本体の素晴らしさを味わいたい。あのじゅわっと広がる酸味と甘みがたまらない。テーブルの上で何も用意せず、手だけで向ける手軽さも素晴らしい。現代、海外でも蜜柑は流通しており「テーブルオレンジ」と呼ばれているとか。

まだまだ寒い冬、蜜柑を食べながらぬくぬくして、長い夜をゆっくり楽しもう。


#料理 #江戸


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