ちょん鏡餅

鏡開き、ページ開き。

お初に御目にかかります。

何から、どうやって、どこから書こうかと色々迷った末、はじめてお目にかかる記事として鏡開きのことから始めていこうかと。

このページでは江戸時代の飲食文化や、それに付随する文化・歴史の事始め、その流れが今につながっている面白い話や、江戸時代から連綿と誰かの手によって作られてきたごはんのレシピなどを紹介していければ楽しいなぁ、と思ってます。

末永く、気長にお付き合い願います。


さて、鏡開きというとお正月に飾ったお餅をなんとか美味しく食べることに思いを馳せがちだが、そもそもの始まりは中国。

中国では元旦に堅い飴を食べる習慣があり、それにあやかって、宮中で「歯固め」の儀式として始まったことに由来。

もともと、餅は、ハレの日に神様に捧げる神饌と考えられており、室町時代以降、正月に都市神様に備える目的で、現在のような鏡餅が定着したそうな。

なぜ「鏡」というのかと紐解くと、昔の鏡が円形だったためで、人の魂(心臓)を模したことから、丸餅になったといわれる。また、大小2つ重ねあわせるのは、月(陰)と日(陽)を表しており、福徳が重なって縁起がいいと考えられたからとも言われる。

大小2つに重ねられた鏡餅は、半紙を敷いた三方(三方の側面に透かしのある四角形の台)に載せ、橙・ゆずり葉・昆布などを添えるのが一般的。

ゆずり葉は新しい葉が出てきて初めて古い葉が落ちることから、次世代に家系を「ゆずって絶やさぬ」という願い。橙は家が代々栄える、昆布は子孫繁栄の願いが込められていることから縁起物として使われるようになった。

江戸時代、大奥では1月7日に七草粥を食す「七草の儀」が行われ、そのあとに「御鏡餅引(おそないひき)」というのが行われた。この日、諸大名から紅白の餅が献上され、それを「オトコシサン」と呼ばれた下男が台に載せて踊りながら御広敷から御膳所まで運んだ。そして翌11日に御鏡開のお祝いを行った。

武家では具足(甲冑)と一緒に餅を飾ったので、「甲冑開」ともいう。

鏡開きした餅で雑煮を食べることもセット。ちょっと脱線はするが、有名な話で、8代将軍吉宗が鷹狩に出座した折、武蔵野國葛飾郡葛飾天領の道灌島香取神宮分社社務所でランチタイム。その時のランチは鏡開きしたお餅の入った御雑煮。澄まし汁仕立ての中に餅と菜っ葉が入ったシンプルなもの。普段、雑煮に入れる菜っ葉はホウレンソウであった。ホウレンソウの鮮青色は、加熱すれば色が悪くなり、灰汁味も残る。しかしこの雑煮には鮮やかな緑色を保ったままの菜っ葉がいる。灰汁味もなく、澄まし汁のうまさが引き立っている。驚いた吉宗は接待役の宮司に「これは何の菜だ」と問うてみた。

すると宮司は「特に名はなく、江戸菜とも、水神菜ともいろいろな名前で呼んでおります」と答えた。

それを聞いた吉宗はそばを流れる小松川より名を取って「小松菜」とするがよい、と命じた。

小松菜はその後も吉宗が好んで食した菜っ葉であり、家臣もこれに倣い雑煮には小松菜を入れるようになった。これが庶民にも広まり、現代にも繋がっている。

雑煮ほど、全国各地で違いが出る料理もないかとは思いますが、我が家では関東風の鶏がら醤油ベースに、小松菜・里芋・人参・蒲鉾。

大晦日に鶏がら出汁を取りながら正月の準備をする時間はこの上なく、わくわくし、温かく、楽しい時間だった。

鏡開きの11日となると現代ではみな、仕事始めから慌ただしい年賀挨拶に方々を駆け回る時期なので、昔のようにゆっくり福のものをいただくという気持ちにはなれないかもしれないが、少しだけお正月の幸せ気分を思い出し味わってみるとまた、素敵かも。




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小倉 風子
もし、気に入っていただけたら心強いです。ますます変態的に調べ、研究しまくれるようになります。