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限界を知る、そしてパーティーへ。

私はもともと友達がすくない。

「私はAちゃんとBちゃんとも仲がいいけど、AちゃんとBちゃんは最近気まずそう」とか「CちゃんがいるときはAちゃんがあんまり楽しくなさそう」とか、そういうことに気を配るのが煩わしいので1対1での交友関係が基本だ。

大阪に住んでいた頃はそれで問題なかったのだが、愛知に引っ越してきてからは、大阪の友達と会う回数がさらに減ってしまって、口だけの約束が増えていっている。

「一人一人と会うために時間を取るのはそろそろ限界かもしれない、体力もない。そうだ、私にこそパーティーが必要なんだ……大きな家に友達みんなを一気に集めるのだ………!」と帰省のたびにパーティーに思いを馳せる。

パーティーを切望する理由は時間や体力だけではない。

会った友達が妊娠・出産をした場合、「私もそうだった!」と頷いて共感できるポイントもなければ、逆に「私はそうじゃないな〜」と2人で意外性を楽しんだりすることもできない。
自分から質問しておきながら「知らない世界だな〜」と受け身の反応になってしまい、相手に与えられる情緒がない。
ほんとうに申し訳ない。

そのような時、そこに出産を経験した人がもう1人いれば、2人の間で共感や意外性を楽しむ対等で豊かな会話が繰り広げられるのに。私は隣でそれを聞いていたい。
会話に参加できなくても、友達の近況や変化を知れてきっと楽しいだろうな……と思う。

さらに私の他に出産を経験したことのない人がもう1人いれば「私たちには想像もできないね〜すごいね」と、経験していない2人の間に共感が生まれる。

自分と友達との間からどんどん共通点が少なくなっていく。
今となっては「私にだけ聞いてほしい話」なんてものは、ほとんどない気がする。
「あなたにだけ言える」という気持ちが生まれるのって、同じコミュニティに属しているとき、共通点をたくさん持っているとき限定だと思う。

誰にでもするような話を、同じように私に話してほしい。
友達が元気であることを確認できて、変化を知れたらそれでいい。

成人式の時は「会いたい人には自分から会いに行く。私に会いたいと思っている人はとっくに連絡をくれているはずだから、同窓会でお手軽に旧友に会おうとするのは不誠実だ。」と思い、同窓会に参加しなかった。

親戚の集まりの必要性だってなんにもわからなかった。げっそり疲れて帰るだけなのになんでわざわざ集まるんだろう。

しかし、一斉に集まることの合理性が今になって理解できる。

人の話は複数人で聞いた方が、いろんな情緒が飛び交う。自分ひとりで"聞き手"を背負う必要がなく、気楽だ。

それに、パーティー以外は愛知に引き篭もると割り切ってしまえば、パーティーの直前だけ美容室に行き、一張羅を着て大阪に帰ればいいので、美容やファッションを後回しにしがちな私にはちょうどいい。いわゆる"ハレとケ"だ。

今までずっと「理解できない」と思っていた文化や行事がすっと自分の中に滑り込んでくるときがあり、面白いなと思う。
こうやって少年少女の目にうつる「なんにも考えてなさそうな大人」が誕生するんだよな、というやるせなさもある。

はたして、私は野望通りパーティーを開催できるのだろうか。

これになるのが怖い。

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