奈良絵里子

奈良からの絵葉書を読む里帰りできない冬の椅子に正座し(名前短歌=枡野浩一)

奈良絵里子

奈良からの絵葉書を読む里帰りできない冬の椅子に正座し(名前短歌=枡野浩一)

マガジン

  • わたしのマレーシア

    1989年〜1991年頃にマレーシアで暮らしていた記憶を書いています。当時3〜5歳だったので、曖昧で不確かですが、何かの記録になればいいなと思います。

最近の記事

日本人クラブ(わたしのマレーシア)

この話がしたくてnoteを立ち上げたといっても過言ではないくらい、思い出深い施設、日本人クラブのこと。 日本人クラブというのは、日本食のレストランや図書館が一体になった施設で、とにかく頻繁に行っていた記憶がある。建物のイメージとしては日本の公民館のような、公的施設のようなズドンとした雰囲気だった。おそらく現地の日本人会の事務局的な施設だったんじゃないだろうか。 「日本人クラブ行こっか」と母が言うときは、1階にある日本食レストランに外食しよう、という意味。マレーシアでは外食

    • フルーツいろいろ(わたしのマレーシア)

      マレーシアでかかせないおやつといえば、いろんなフルーツ。熱帯の国なので、日本では見かけない種類のフルーツをよく食べていた。 一番よく食べたのがスターフルーツ。日本でのみかんやリンゴのようなポジションで、とにかく毎日のようにおやつに出ていた気がする。黄色い星型でかわいいけど、すっぱいばっかりで味がないようなのもあって、なーんだスターフルーツかあ、みたいなテンションのおやつ。1センチくらいの輪切り(というか星型なので、星切り?)にしたのを、手で持ってさくさく食べてた。 一番好

      • わたしのマレーシア

        私は3歳から5歳(6歳になる年)の約3年間、東南アジアのマレーシアという国で暮らしていました。小さかったし、たった3年間なので覚えてないこともあるけど、日本とは少し違う日常を懐かしく思い返すことがあります。 昨年、母が二十数年ぶりにマレーシアへ遊びに行ったそうです。懐かしいところもあったみたいだけど、街並みや国の雰囲気がずいぶん変わってびっくりしたと言ってました。1989年〜1991年当時、発展途上国と言われていたマレーシアは急速に発展していったんだと思います。 私はわり

      日本人クラブ(わたしのマレーシア)

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        3本