宝塚だから許されないのか、宝塚だから許されるのか

先に投稿した観劇メモで『シティハンター』と『Fire Fever !』の一部に引っかかるところ、残念なところがあると書いた。ここではその点について述べたいと思う。

まず、『シティハンター』についてである。一部の直接的な表現は差し替えられているとはいえ、宝塚版でも主人公・冴羽獠の数々のセクハラ行為(好みの女性をみると見境なくお尻を触ったり抱きついたりする)がほぼそのまま演じられている。しかし、獠によるセクハラ行為の描写については、この演目がコミック作品の舞台化であること、80〜90年代初頭という時代を背景にしていること、そして重要なのは、そうした認識が舞台を観る観客に共有されている(と考えられる)ために、いくらか許容できるものになっていたと思う。少なくとも、見る側に不快感を与えるような表現ではなかったと感じる。加えて、後でも書くように、宝塚では女性が演じているために、このようなセクハラ表現も生々しさが緩和されるということもある。

一方、見ていて引っかかりを感じたというのは、作中で獠を取り巻く何人かの女が喧嘩をする場面である。この場面では娘役演じる女が男役演じる女に向かって「このブス!」と悪口をいう。この際、「ブス」という言葉を使うこと自体を問題にしたいわけではない。他に演じられる役者(娘役)はいくらでもいるのに、わざわざ女性の格好をさせた男役を配して、彼女に対して蔑むような言葉を浴びせ、それによって笑いを取ろうとする演出が問題だと感じるのである。

いうまでもなく現代では外見的な特徴やセクシャリティを理由にその人を差別したり、蔑んだりすることは許されない。もっとも、この場面は「ブス」という言葉を浴びせられた“女”の性別やセクシャリティが作中で明示されているわけではない。また、宝塚の舞台は男役であってもすべて女性が演じているので、「女性が女性に対して悪口を言っただけ」と思われるかもしれない。しかし、それでもこの演出が問題だというのは以下の理由による。

宝塚では男役/女役(娘役)というジェンダー区分がかなり強固に出来上がっている。生徒たちは音楽学校時代から、舞台上のみならず日常の所作まで含めて、男役は男役らしくあることを、娘役は娘役らしくあることを意識して行動している(たまに男役から娘役に転じることもあるが、行ったり来たりというのは基本的にない)。同じくファンも、生徒たちを男役と娘役とに区別してみており、男役の〇〇(たとえば彩風咲奈)、娘役の〇〇(たとえば朝月希和)として応援している。舞台上で役を演じる時も、男役の〇〇が演じる△△(たとえば彩風咲奈が演じる冴羽獠)、娘役の〇〇が演じる△△(たとえば朝月希和が演じる槇村香)としてみることになる。

すると、男役が舞台上で女性の役を演じる場合、男役の〇〇が女性を演じていると、多くのファンは認識することになる。それだけならば問題はない。宝塚では伝統的に男役が舞台上において女の役を演じることがしばしばある(『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラなど)。しかしその場合、男役であっても女性の役を徹底して作り込むことにより、舞台上のリアリティとして「女性を演じている」と観客からは認識される(男役が「男性を演じている」と認識されるのと基本的に同じ)。

ところが今回の場合、男役が女性を演じていることを、わざと強調するような演出になっていた(「ブス」と言われる女を演じる男役の生徒は同じ演目の中で黒服を着たヤクザを演じており、分かる人にはすぐ分かるようになっていた)。それにより、既存のジェンダー規範に照らして「女らしくない女」が、「ブス」と言われ罵倒されているように観客に伝わる描写になっていた。しかもそれを「笑い」としてみせる意図が明らかだった(実際、会場からは笑いも起きたが、笑えないと思った人もいたはずだ)。

しかし、さらに酷かったのが、つづく『Fire Fever !』の一部の場面である。上に書いた芝居のときと同じく、女同士(娘役の集団)が貴族風の男(男役スター)をめぐって諍いを繰り広げている。そこにドレスアップした女性とみえる人物が扇で顔を隠して現れる。貴族風の男は懲りずに新たに現れた”女”に近づく。しかし、扇を取るとそれは実は男性で(髭がついている)、貴族風の男は「男ー!」と叫んで逃げ出してしまう。逃げる男に対して女たちの集団は、「身から出た錆」と歌う。つまり、たくさんの女を愚弄した男は、その罰として「女装した男」が与えられ、びっくりして逃げるという描写になっている。それを面白おかしい滑稽なシーンとして提示しているのである。

一昔前のテレビのコントにありそうな場面である(テレビのコント以上につくりは雑である)。既存のジェンダー規範に当てはまらない人々の誇張されたイメージをコケにした描写であり、もしこれが地上波のテレビで現在流されたとしたら炎上必至ではないかと思う。

これらの場面を演じた生徒らを批判する意図はない。作・演出の齋藤吉正と稲葉太地、およびこれらの演出・表現を許した劇団側の良識と見識のなさを批判したいのである。ただ、この種の表現は、実は今回の作品だけでなく半ば宝塚の「お家芸」として、近年でもしばしば上演されている(特定の演出家に偏っているとはいえ)。何より「品」が大事にされる宝塚でなぜこのような表現がいまだに行われつづけているのか。

宝塚で「品」が問題にされる場合、“宝塚の基準に照らして”その表現が許されるかどうかが問われることが多い。「すみれコード」と呼ばれる不文律のお約束があるとされるように、宝塚という夢の舞台で「下品」な表現は慎まれなくてはならないというわけである(そのお約束自体、時代や状況次第で変化していて決して一定ではないと考えるが)。

しかし、ここでは逆に宝塚だからこそ許されてきた表現があるということを問題にしたい。女性が男性を演じているために、上述したように、多少セクシャルな描写があったとしても生々しくならず、安心してみていられる。そのことは、一方では宝塚の表現を多様で豊かなものにし、外部の舞台にはない魅力となってきた。しかし他方では、「宝塚だから許される」という制作側の「甘え」を生じさせ、結果として、今回の舞台の一部の場面に見られるような時代錯誤で醜悪な(と思える)演出・表現が、何の反省もないまま繰り返されることになってしまっているのではないか。

こうした「甘え」を生む土壌として、宝塚が「宝塚ファン」という、いくらか固定化された客層を相手に、作品を作り続けてきたことがあるかもしれない。今回のような男役の「女装」だけでなく、宝塚には「定番」となっている演出・表現が多くある。長く宝塚を観劇している「宝塚ファン」たちは、そうした宝塚における「定番」の演出や表現に慣れ親しんでいる。演出家サイドも、「宝塚ファン」に向けて、これまで通りの演出・表現を繰り返す。

しかし、実際には「宝塚ファン」は一様ではないし、時代に応じてファンの見方も変化していく。そうしたファンの多様性や時代の変化を感知できないのでは、宝塚歌劇の未来は暗い。一方で宝塚は、つねに外部のアートやエンターテイメントの表現を取り込み、宝塚流に鋳直しながら新たな表現を開拓してきたのであるから、そんなことは百も承知であるはずなのだが。

これ以上は踏み込まないが、外部の声や時代の変化に目配りができないのは、何も宝塚だけの問題ではない。ここ数年、大企業や政治・行政において、視野の狭さや時代錯誤の感覚によって数々の炎上騒動が繰り返されてきた。ここに書いた問題も、日本における組織とその意思決定プロセスの問題という、より大きな問題に通じているように思う。

色々と批判ばかり書いたが、両作品ともに、上に記した一部の演出・表現を除き、魅力ある舞台であることには違いない。最後にこのことを書き添えておきたい。

追記

東京公演において、批判した『Fire Fever !』の一部の場面のセリフなどに変更があったと聞く(実際に見たわけではないため詳細は知らない)。当然のことと思う。しかし、なぜそうした変更が行われたのかについて、劇団からの説明はない。どのような判断においてそうした変更が行われたのかをぜひ明らかにしてほしいと思う。そうでない限り、今後もこのようなことが繰り返されるのではないかと懸念する。

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