マイナー外国語を学ぶ意味(東大新聞コラムFull Ver.)

確かに記者は駒場の生協書籍部でカンボジア語(クメール語) やタタール語の入門書を手に取りペラペラめくっている人を見たのだ。マイナーな言語の学習を愛する同志に違いない。その人に記者と同じように同志を見つけた喜びを感じさせたかったのか、はたまた声をかけられないか仲良くなれないかというような下心のせいか、私もベトナム語やヒンディー語の入門書を手に取ってめくってみせたが、やがて彼は何も買わずに出て行ってしまった▼語学を実学と捉えている人には、マイナーな言語を学ぶ私たちの存在は奇異に映るだろう。しかし、少なくとも記者は語学を教養を深め驚きを摂取する学問と見ているし、現時点ではあまり実用性のない知識の吸収自体を楽しんでいる▼あの人も記者と同じく2年次の夏には文学部や教養学部の言語学を学ぶ専修・コースに進学希望を出すのかもしれない。主に文Ⅲの学生が志望するところだ。昨年度の諸手続の日に、メガホンで某雑誌を売りながら文Ⅲを見下すような発言をしていた人たちがいたように(最低点が低いからという理由なのかもしれないが、そもそも2022年度の文Ⅲの入試最低点は文Ⅰより高かったため、点数だけでなく文学部蔑視も背景にあると記者は考えている)、文学部や教養学部は世間では「役に立たない」と軽視されがちなように思う。文学部不要論すらささやかれるほどだ▼しかし、そもそも「役に立つ」というのは何も「今すぐ」「社会にとって」だけでなく、「いつかどこかで」「個人にとって」でも良いのではないだろうか。前期教養課程での学びの多くは今すぐ社会の役に立つことはないが、自分の見識が広がれば個人の役には立ったと言えるではないか▼打算的に身に付けたわけではない専門外の知識がいつか偶然生きてくることもある。以前取材した工学部の起業家の先輩は、教養のある大企業の社長と、前期教養課程の授業で学んだ仏教の知識を生かしてしっかり対話ができ、見所があると思ってもらえた、と取材で語っていた ▼2016年にノーベル医学・生理学賞を受賞した大隅良典氏も、「役に立つという言葉が社会をダメにする」と言った。(上述してきたこととは少し趣旨が違うが)「科学で役に立つということが、数年後に企業化できることと同義語みたいに使われているのは問題。本当に役に立つとわかるのは10年後かもしれないし、100年後かもしれない」(https://www.j-cast.com/kaisha/2016/10/28281668.html?p=all)という。個人の見識が広がればそれでいいではないか、という記者の主張に共感できなくても、少なくとも、社会のために「今すぐでなくてもいつかどこかで」役に立つ学問の存在価値は最低限認めるべきではないだろうか▼ここがすごいと言われる帝京平成大学のように実学を重視する大学もある中、「役に立たない」と言われるような学問を進学選択までの約1年半にわたって楽しめる東大に入れた新入生の皆さんはつくづく幸運だと思う。【不可説】

※東大新聞4月号に掲載されたコラム「排調」のフルバージョンとして加筆修正したものです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?