異界神話体系(3)

第3話 復讐神フリア(後)

 渦巻く空に現れた穴。台風の目ではない。作為的な真円。第4の月、テトが太陽の面を覆い、それを中心に、第1から第3の月が大三角を描いている。そして静かに、朧気な女神の顔が穴を覗いて、頭からゆっくりと降りて来る。

 霧が凝縮して生まれた彫像のようである。美しいが特徴のない顔立ち。六枚の翼。か細い指が都市を指し示す。都市の光が消え失せて、ひっそりと静まり返った。女神が水晶宮の上に降り立つ。小柄な、白いドレス姿。少女か女か、年の頃も不明瞭で、輪郭は曖昧模糊として大気と混じり合う。女神の六枚の翼が広がってり、陰を放つ。フリアを中心に大きな黒い円環が描かれる。この都市の希望は完全に潰えた。林立する望楼の誰もが、凍りついたように動かなかった。神的存在の圧力は、時間すら押し潰してしまいそうだ。

 そしてそっと歌が始まる。それは神々の言葉である。

 父は至高の座に御座し  その意は遍く世を包む
 栄光の衣脱ぎ捨てて   其は万物に意趣抱く
 禍難の小路に分け入って 今や消えんと罰を待つ

 大地の威風 四海の威容 
 森羅の光輝 天の所思
 讃えよ 唯一のあの方を

 言葉そのものは知らずとも、意味はすべての人々の心に響き渡る。山々を越え、遠く、山稜に近い国々の民にも届く。宮仕えの官吏は思わずペンを落とす。農民は鋤を手に天を仰ぐ。むずかっていた赤子が黙る。都市国家が丸ごと無に帰すのだ。そこに有る生命も、営みも、何の痕跡も残さず、完全に忘れ去られ、真の死を迎える運命にある。天幕の穴から細雪が降り始める。正確にいえば雪ではなく、滅びそのものである。

 汝、己を呪うべし
   此の地に在って、父を見ぬ目を
 汝、額衝き祈るべし
   今や鎚が下される 不信は我らが敵なりて
   滅びが此処に訪へり

 フリアの翼から羽が1本抜け落ちる。宙を舞いながら自壊し、雪のように降りかかる。それが水晶球に触れた途端、都市全体のガラスにはヒビが入り、細砂となって流れ落ちる。合金の骨組みは腐食して倒れ、端から錆粉となる。都市のあちらこちらで爆発の炎や雷が閃いたが、巻き戻されるように収束した。轟音が響いても良いはずだが、辺りはとても静かだった。歌と、風の音と、砂が流れるような音が聞こえるばかりだった。

 神意に触れるだけの科学文明である。反撃も有ったのかもしれない。仮に有ったとしても武器の暴威は空間ごと、知覚できないレベルまで抑制されたに等しい。科学都市なるものは本当にそこに有ったのだろうか。ただ塵が降り注ぎ、またその下で、形あるものが塵になる。

 あまねく異教は灰燼に帰す 
 骨の一片も残さぬ
 草の一本も残らぬ
 丘陵の命は潰え 只、砂塵の一粒となる
 我が子よ、そして異郷の子らよ
 正しき神に拝跪せよ
 死後の悔悟は許されぬ

 丘陵にはもう何もない。雨季が来れば砂が流され、谷間や窪地に溜まり、斜面の山土が露出するだろう。それまでは無機的な世界が広がるばかりだ。立ち入りも禁じられる。滅びの塵が残存する可能性があった。

 女神フリアはしばらく、水晶宮だった場所に浮いていたが、歌が終わり、翼を畳むと、掻き消えるように居なくなった。統括局の3人は未だ緊張を保ったまま、双眼鏡を握りしめていた。

 とその時、茜とエーの間に居た青年の正面に、ふとフリアが現れた。女神は青年のマスクに触れて砂に変え、人差し指をゴーグルの上から突き刺した。青年の右の眼球が無くなり、彼は昏倒した。フリアは僅かに微笑んで、今度こそ本当に姿を消した。

 国立学府の付属閉鎖病棟。厳重閉鎖エリアの患者は彼だけだった。面会謝絶が解かれた途端、アカネとエーがやって来て、形式的な見舞いの言葉もそこそこに、異端審問所の召喚状を持ってきた

「やっぱり義眼って違和感あるん? そりゃ慣れるまで変な感じすると思うけどな。立体視もでけへんし。それにその、顔の痣、砂に触れた痕かいな」

 彼女は見舞いの品の封を切り、彼女が好きな菓子と、そうでない菓子を分けている。

「無関係の人々が巻き込まれることは比較的よくあります。僕らのような学者は、特に神々に近い位置で観察しますから、数年に数人は亡くなります。ただし今回は、フリアの〈意図的な行動〉ですから、神学庁もかなりざわついていましてね……。神によっては気まぐれで、悪戯をする者もいますし、中には、つまみ食いを好む低俗な存在もいます。ただ、復讐の女神に関しては前例が見当たらないのです」

「これもらうで、深山堂のヨーカン。うちの部署から購入予算出てるんやし」

 アカネはヒルムシロヒドラ羊羹橘風味をかじって緑茶をすすり、エーは資料の分厚い束をめくっている。

「単刀直入に言えば、異端審問官はあなたが何か隠していると考えているのです。こちらに来て長い時間を聴取に取られたと思いますが、プロトコルの再実行か、ワンレベル上のプロコトルが実行されるかと、僕は予測しています。審問所委員会で最終的な判決が協議されます」

「大したことあらへんやろ。結局は女神のタチの悪い気まぐれでした、で終わると思うけどな。金木犀セットやなしに桜吹雪セットこうたら良かった。煎餅が少ない」

 アカネは官吏2級資格、エーは官吏3級相当である。この1階級の差には、能力の大きな隔たりがあるという。大物は細かいことを気にしないのだろう、と青年は思った。何かに感想を持ったということは、すなわち彼の主体性喪失に若干の寛解が見られたということである。

 さて、異端審問は2日後、大法廷で午前に開かれる。久方ぶりに大法廷が使われるのは彼のためではない。午後に控えた男の審問のためである。


[第4話 遍在神エンノイア]へ続く


#逆噴射プラクティス

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