異界神話体系(2)

第2話 復讐神フリア(前)

 世界にはただひとつの大陸しか存在しない。超大陸バルバティカ。その三日月状の大地に、100を超える都市国家が乱立している。すべてが神権国家である。この世界では神々の意志が最も重要である。ときには神罰のために、あるいは祝福のために、大いなる存在が天から顕現する。人々の暮らしは信仰と共にあり、それ抜きでは成立し得ない。

 最大の国家、ローレンシアは叡智のソピアを主神として奉る。ローレンシアの学者らは、叡智の祝福により、精霊の奇跡の再現を部分的に可能とする方法論を打ち立てた。サクラメンタム(神聖儀典法)と名付けられた技術は急速に進歩し、とうとう、ある究極的仮説に至った。

 泡沫世界仮説。あらゆる世界は寄り集まった泡のうちのひとつだ。互いに似た世界もあれば、全く異なる世界もある。過去に天界と呼ばれていた場所は、高位の神がひと柱ごとに持つ家々であり、泡である。そして至高神の、人間が認識さえできぬ創造神の家も確実に存在する。それを見つけ、それに触れたとき、唯一の真理が明らかになる。

 ローレンシアの学者らは、巨大な天文台を建造した。夜空に見える無数の星々、その光が、世界そのものだったのである。彼らはソピアの加護のもと儀典法を用い、遥か遠くに輝く世界から、魂を投影し、肉の器に吹き込むことに成功した。真なる魂を引き寄せているのか、ただの複製を得ただけか、それは分からない。だが少なくとも、星々を精査し投影を続けていれば、いずれ至高神の似姿を降ろすことが可能となるはずである。

 一方、大陸南部の大国、ヴェーリンジアは理性のロゴスの手を借りて、白亜の大扉を作り上げた。大扉は、高次の世界や、更に高高次の世界から、物的存在を直接に引きずり込むが、物理的な損傷が酷く激しい。精霊に準じる存在ですら肉塊と化してしまう。

 その他の国々も、奉じられる神々も、それぞれの思惑で真理を探している。

 深海や地底の奥深くでは、闇に属する者共が、反逆の時を待っている。

「こっち来て早々に神罰見られるん、めっちゃ運がええんやで」とアカネが言った。

 彼女の髪が強い風になびいた。

 今、大陸の北西に位置する辺境、イム山稜は奇怪なガラス都市に覆われている。地面は余すところなく珪酸煉瓦に覆われ、その上に幾何学模様のガラスの建築物が折り重なっている。彼らは科学都市国家エキュと自称していた。都市の中央に正八面体、オクタヘドロンの水晶宮がある。その水晶宮に光る小さな人工太陽、炎の炉は、彼らの偶像である。彼らは科学を信奉していた。対象が何であれ、指向の強さが閾値を超えれば、それは宗教と区別が付かなくなる。

 あらゆる蓋然性に神々の意志が入り込み、出来事の結果を左右するこの世界において、人の努力による科学技術は成り立たない。例外があるとすれば、絶対的な精度を誇る、半ば神がかった知性の手による作品のみである。

「2年か3年前、投影局がええ格好しようと思って無理に遠くに手出しよってな、火の玉みないな種族が喚ばれたんや。その結果がこの有様。光ってんのは核融合炉かもしれへん」彼女は鏡筒を回して双眼鏡の倍率を上げた。

「30センチくらいの光が浮いとって、念動力みたいな、ようわからん力で工作するんやて。もと居た次元は異常にテクノロジーが進んでるっちゅうことで、座標抹消、次元ごと接続禁止指定になってん。至高神探しは別にええけど、たまにとんでもないもん呼んでしまうんで、まぁ迷惑な話。火の玉の皆さんは再三の警告もガン無視。勝手に独自文化を再現しよった上、あっという間に都市が急成長。武装も始めたみたいで、まぁ見逃される訳もあらへんわな」

 国境のこちら側、輝く都市から数キロ距離を取った位置には、無数の望楼が並んでいる。各国の神官や政治家、軍人、学者、貴族が遠眼鏡で覗いているのだ。大金を払った見物客もいる。正式に派遣された観測官の方が少ないほどだ。

 統制局教育部から派遣された我らが3人もこの望楼に――急ごしらえの木造で、縄梯子を上り下りするだけで揺れる代物だが――なんとか席を確保した。まだ予定時刻の2時間前。この望楼には3人しかいない。

「神託によれば『塵が降る』とのこと。大方、復讐の女神フリアで間違いないでしょう。〈暗い水の神〉の神託は分かりやすいですから。要求する供物はえげつないそうですが、他の神々よりずっと明瞭な言葉を送ってきます」金髪の若い神学者が言った。彼は神聖言語の専門家である。名をエーと言う。

「フリアの滅びの歌は直接伝わる思念ですので僕の出番は無いようですね。表象としての音律、それに付随する意味。通常の言葉はその2つで終わりますが、滅びの歌は思念付き。同時通訳の副音声のようなものですよ」

 彼は天体望遠鏡で太陽を観察している。薄雲に隠れた太陽がほんの少し欠けているようだ。

「ところでエー君、あんた神罰何回も見たことあんの?」

「降臨祭の神々は何度か見ましたが、神罰は一度だけ。古テティス海、南海岬沖に海底蛮神の赤線虫が湧いた時に。〈血のクルカンナ・クル〉。あれは二度と御免です」

「クルカンナって成長と自死を繰り返す腫瘍の塊やろ、小山サイズの。膿垂れ流して何もかも腐らすんやろ。えらいもんや。暫く肉ら食われへんようになりそう」

 アカネはコートのポケットからヒドラ羊羹を取り出してかじった。

「ご大老の皆様方が揃って神託の解釈を間違いまして。あの時もフリアの予定だったんですよ。我が国が奉るお方の神託は抽象的に過ぎるんです。芸術的な押韻の叙事詩で如何にも読み解きにくい。よく逆説的な言い回しも好みます。あのときは、天使を舳先に乗せた帆船が、夕日に染まる海を往く詩でしたね。『朱色の海』は、赤線虫の崩壊じゃなく、クルカンナの肉のことだった」

「肝心要の海神が引きこもってたさかい、そっちへの罰の意味も込めて腐敗物撒き散らしたんやろな。おかげでハネウミヒドラ煎餅品薄になって糞腹たったわ」

 また強い風が吹いた。どこかの望楼から書類が舞い上がって空に消えていった。人々は外套の襟を合わせた。

「で、先っからちょいちょい説明したげてんのに、ちったぁ喋ったらどうや、君」

 彼女は、色白で特徴のない青年の背を叩いた。

「いや、すいません」

「ほんで、まだ自分の名前も思い出されへんのやで、この子」

「主体性欠落症状がちょっと長いみたいだね。2年以上続くことも珍しくないと聞くし、気長にね。ああ、黒鉛フィルター無しのレンズを持ってくれば良かった。雲が重なると暗すぎて見えない。どうせ予定通りの進み具合だろう。そういえば君、茜さんと同じ次元の方? 基底の文化が似ているようだけれど」

 エーは望遠鏡を分解し、ケースに仕舞い始めた。

「ちゃうちゃう、明治102年の修羅場とおんなじにせんといてや。こいつは平成32年、隣接次元で平和ボケしとるわ。うちらは共同租界で竹槍持って内紛したんやで。機関銃持ったアメ公の公安に相当射撃されるわ、中華特性のガス弾食らうわで、散々。こいつらは平和な世の中、不況で鬱々、車離れが深刻なお坊ちゃん方。装甲車の免許も持ってへんのやろ。ほんで課題もまだ全部読んでへんやろ。生活に支障出るいうたやろ。なんかあって死んでも知らんほうが悪いんやで」

「『神権世界の釈義 基礎編』だけで10巻以上ありますし……」

「あ? 今月中に統制局支給の必須分は消化せんと、強制送還処分にするで? 要するに異端審問所で火炙り。魂は送還されるんちゃう、知らんけど。神意に背いたらそれで終わりやからな」

 アカネは統括局の局員、今はまだキャリアこそ浅いが、エリートだった。

 風向きが変わる。北西から分厚い雲が押し寄せて薄暗くなった。

「太陽がひどく見難い……日蝕の進み具合が早すぎる。アカネさん、今何時かな」

「10分過ぎ。2時のな。いや、今20分過ぎになった」

 銀の鎖にぶら下がった真鍮の懐中時計。秒針は恐ろしい速さで回転し、分針もあっという間に進んでいく。時間の経過速度が通常の60倍に近い。

「おいおい、まずいぞ、まずいぞ、風向きも良くない、ペストマスクと蝋引き服一式出しとけ、念の為にマスクの下にも保護ゴーグルを忘れるな」

 俄に空に渦が巻く。灰色の天幕が荒々しく蠢く。国境一体の人々が慌て始めた。滅多にないことに、時間が荒れ狂うように、神意に沿って流れている。雲の帳に穴が開く。太陽が無い空には3つの月が大三角を描いている。

 そしてそっと、朧気な女神の顔が穴の向こうに現れた。


[第3話 復讐神フリア(後)]へ続く


#逆噴射プラクティス

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?