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追悼・ぴーさん

令和四年四月二十六日午後六時五十五分、私の膝の上で、老猫のぴーさんが亡くなった。享年、二十歳。青いだっこ紐の中での臨終だった。
私はパソコンに向かってショートショートを書いていたが、ふと呼吸がなくなったのに驚いて、ぴーさんを見下ろした。すると、しばらくしてがはっと息を吐き出した。復活? と思ったが、体がたるんと弛緩してしまったので、たぶんそのときが最期だっだのだろう。
まさかこんなに早くお別れがくると思ってなかった私は驚き、口の中に手を突っ込んでみた。舌がたれている。
ここ一ヶ月くらい顎の下が膿んで、上顎と下顎が噛み合わず、ずっと舌を出してかわいそうだったのだが、すっと顎の形がもとに戻っている。ああ、亡くなったのだなあと思う。軽い体を持ち上げると、たらんと長くなった。

ぴーさんが我が家にやってきたのは、二十年前のある日。
小学校四年生の息子が友だちの元ちゃんと一緒に、段ボール箱に親子ともども捨てられている猫一家をみつけた。土砂降りの寒い日だった。息子が段ボールに手を突っ込み、無造作に一匹の赤ちゃん猫を取り出した。
元ちゃんは猫アレルギーがあるので飼えない。
それでうちにやってきた。そのとき、うちにはすでにまうことりんごちゃんがいた。
「三匹は無理だろ」
ということで、当初は誰か貰ってくれる人を探すつもりでいた。情けが出てはいかんと思い、名前も「鈴木課長」にした。
ところが、もらい手はあらわれず、鈴木課長はスズキになり、やがてぴーとなった。こうなると、もう飼うしかない。さいわい、ぴーはとてもおとなしいしい猫だった。

左上、まうこ。右上、りんご。下、ぴーさん。


まうことりんごちゃんは我が強く、相性が合わなかった。喧嘩ばかりしていたが、ぴーは、どちらともうまく付き合った。気が付くと、どちらかの猫のわきに静かにたたずんでいる。

まうことぴーさん
ぴーさんとりんごちゃん


ぴーは、断じてぴーちゃんではなかった。子どもの頃からぴーさんだった。非常に整った顔つきで、お嬢様の雰囲気がある。

ぴーさんの鳴き声はあまり記憶にない。かといって、人に慣れない猫ではなかった。お客さんが大好きで、知らない人がくると、ずっとそのあとに付き従った。ガスヒーターの修理やクーラーの取り付け工事の人がくると、あとをついてまわった。作業を邪魔することはなく、
「あなたは誰ですか? なにをしていますか?」
としずかに問いかけていた。

そのころ、我が家には来客が多かった。よく泊まりに来る面々のなかに年若い友人がいた。彼女はぴーさんを洗面所に連れていき、水道から水を流してみせていた。ぴーさんはときどき水をひっかき、
「ああ、これは怖くないものだ」
と学んだらしく、水をこわがらない猫になってしまった。
ひとが風呂にはいっていると、風呂場にやってきては、
「なかにいれてください」
と鳴いた。
はいってくると、ひとしきり匂いを嗅いだあと、濡れるのも気にせず洗い場にぺったりと座り、それがぴーさんの入浴なのだった。
亡くなる一ヶ月前くらいからだろうか、トイレに行く元気もなくなり、横倒しのままおしっこをするようになった。下半身がずぶ濡れになってしまい、かわいそうだった。
そういうときは、妻がぴーさんをお風呂にいれてあげた。抱えたまま、湯舟にひたる。ぴーさんは目を見開いて、じっとしていた。もう暴れる元気がなかったのかもしれないが、その底には水好きがあったのではないかとおもう。

元気なころのぴーさん

ぴーさんは、あまり猫らしい生活は好まなかった。生魚をあげようとしても、いやいやと首を振って、食べない。エサはずっと固形のカリカリを食べ続けた。この味はもう飽きたなどということは言わず、修行僧のようにカリカリを食べ続けた。
唯一、猫らしいところといえば、Amazonの箱を愛したことだった。新しい箱が届くとなかにうずくまり、うれしそうにしていた。まうこさんも箱好きだったので、ふたつの箱が並べてあった。

猫のおもちゃにはあまり反応しなかった。興味はつねに人に向いていた。うちの歴代の猫はみんなそうだが、人好きのする猫たちだった。ただ、内弁慶が多く、見知らぬ人にも愛想良くふるまったのはぴーさんだけだった。
ある日、妻の友だちが泊まりにきた。
朝、妻にLINEが届いた。正座しているぴーさんの姿があった。
「朝です。ごはんをください」
と言いに行ったらしい。
ほかの猫では考えられない行動だった。

「ぴーさんには赤が似合う」
と言い出したのは息子だった。
首輪を赤に変えると、映えた。赤いバンダナも似合った。近所のニコニコ商店街に猫向けのお店があったが、二〇一〇年くらいに閉店してしまった。妻はネットで猫の手作り首輪『Pota』を見つけた。ここの首輪はハイグレードで、美しい。ぴーさんも何度かここで首輪を作ってもらった。

ぴーさんはときどき台所にやってきた。天井の一角をぐっとみつめている。特別ななにかが存在するかのように。存在したのかもしれないが、私たちには見えなかった。

ぴーさんのテリトリーは一階だった。二階にやってきて、寝室の布団のなかに潜り込むような積極性はなかった。あるいはそういう楽しみは上の二匹にゆずっていたのかもしれない。ほんとは布団のなかに入りたかったのかも。もし、ぴーさんに会うことがかなったら、聞いてみたい事柄のひとつだ。

ぴーさんは若い頃、比較的よくゲロを吐いた。だから、このひとは体の弱いひとなのだと思っていた。まさか、りんごちゃんが亡くなり、そのすぐあとにまうこさんが亡くなってから八年も生きるとは思わなかった。いつも控え目だったから気づかなかったが、じつはとても体格がよく、大柄な猫だったのだ。
まうことりんごちゃんが亡くなったあとに、びすという男の子がやってきた。びすはまたたく間にでかくなり、老いていくぴーさんをいじめた。急にがばっと立ち上がり、威嚇したりするのだ。性格のいいぴーさんもびすだけはもてあましていた。

ぴーさんのかかりつけ医は、舘岡動物病院浜田山分院の館岡先生だった。無理な治療をしない、高額な治療をしない、厳しそうに見えてやさしい先生だった。
ある日、ぴーさんがてんかんの発作で倒れた。
館岡先生は、悲しそうな顔をして、
「この病気は治らないから。かわいそうにねえ」
といって、人間用のセルシンをわけてくれた。うちにも人間の病気の関係でセルシンは大量のストックがある。それから二、三日に一度はセルシンを飲む生活がはじまった。
セルシンには思わぬ副作用があった。食欲が増進するのである。
セルシンを飲んだ日は、ジューシーなエサを食べた。それ以外の日はお菓子に近いトロトロを何袋も食べる。セルシンがなければ、もっとはやく痩せ細っていた気がする。

トイレでおしっこをできなくなったときにも、タクシーで館岡先生のところにいった。館岡先生は、
「歳ですよ」
と私に言い、それからぴーさんに向かって、
「ご機嫌さんだね」
と言った。
ご機嫌さん。いい言葉だった。ぴーさんは若い時も、年老いてからもご機嫌な猫だった。ひとりで自由を満喫していた。

そのぴーさんが私に懐きだしたのは、十九歳のときだった。私がソファに座ると、膝の上に上がってきて、じっとしている。「ぴーさん」と呼ぶと、尻尾を振ったりした。ひとに甘えるということをはじめて覚えたようだった。二時間でも三時間でもじっとしていた。私はぴーさんを膝に乗せて、ドラマを観たり、本を読んだりした。

ぴーさんとわたし

終末期はゆっくりやってきた。だんだんできないことが増えてきた。家のなかを徘徊し、大小をトイレのなかですることができなくなった。惚けてきたのではないかと私たちは話し合ったが、なにかのきっかけで、また自分でトイレに行けるようなった。なぜ復活を遂げたのかは、よくわからない。
その後、足腰が弱り、ソファの上に自力で這い上ることができなくなった。妻が踏み台を置いてやると、かろうじてソファに上ることができた。下りるときは、液体がこぼれるようにぐにゃんと床に着地した。

私は日中、二階の仕事部屋にこもっていることが多かったが、ある日、足腰の弱くなったぴーさんが二階に上がって来たのには驚いた。
「どうやって来たの」
と問いかけたが、もちろん、ぴーさんは答えない。両腕の腋に手を入れて膝の上に乗せてやると、満足してそのままじっとしていた。鳴くこともない。ひとしきり膝を堪能すると、危なっかしい足取りで急な階段を下っていった。

令和三年十二月のことである。近所のミニスーパーに出かけるため玄関のドアを開けると、ぴーさんがついてきた。驚いて妻を呼び、ぴーさんのあとをついていった。ぴーさんはあたりをくんくん嗅ぎながら、よろよろと私道を歩き、歩道に出た。車庫があった。車の下に入りたいらしく、何度か侵入をくわだてたが、それはご遠慮願って、もとの場所に戻した。また歩道を歩き出し、何十メートルか歩いて、止まった。私たちはこれを「ぴーさんの散歩」と呼んだ。もはや走る力のないぴーさんだからこそできることであった。
それから、ぴーさんが外に出たいということはなかったが、妻は「外の空気が好きなのかもしれない」と言い、何度か二階のベランダに弱ったぴーさんを連れ出した。
荷物置きの金属台があり、その上にバスタオルを敷いてぴーさんを乗せた。ぴーさんはすこし顔を上げ、外の空気をくんくんと嗅いでいた。

惚けではなく、いよいよぴーさんは物理的にトイレにいけなくなった。トイレの縁を越えることができなくなったのである。それでもおしっこはトイレでするもの、という概念は残っているらしく、もつれるような足でトイレの近くまで行き、おしっこをした。
私たちは廊下にトイレシートを置いたが、この処置はあまり好評ではなく、ぴーさんはシートを外しておしっこをした。
紙おむつを導入したのはだいぶあとの時期である。もっとはやくにしてあげればよかった。

ぴーさんは夜、二階の私の布団の中で過ごすようになった。当初は尿意を感じると、自分でベッドからずり落ち、(どうやって階段を下りたのかはいまだにわからないが)、一階まで行って、どこかにおしっこをしていた。
やがて、尿意が来ても自分では身動きできなくなり、布団のなかでおしっこをするようになった。

妻に頼まれ、中野の島忠に「マナーウェア」の紙おむつを買いに行った。サイズは、M、S、SSとあり、ワゴンセールの中にあるのはMとSSばかりであった。「Sはないのでしょうか」と聞くと、「こちらになります」と商品棚のほうに案内された。値段は倍以上の差があった。戦略だなあと思った。たいていの猫はSサイズが当てはまるように思う。
それはともかく、ぴーさんは猫用の紙おむつをする生活に入った。ちゃんとお尻の部分に穴が空いていて、しっぽが飛び出るようになっている。
横になったままおしっこをするとすこし漏れることもあったが、これまでのような大惨事にはならずに済んだ。もうちょっとはやくに導入していれば、お互いに楽だったのに。

その次に妻が導入したのは、抱っこひもであった。なるほど、これならだっこしていても、首が落ちなくて済む。これもはやくに導入しておけばいいと思ったグッズであった。
私たちは抱っこひもの底にバスタオルを敷き、ぴーさんをだっこして日常を過ごすようになった。

妻はかなり早い段階から猫のヒーリング音楽を流すようになった。テレビから流れるYouTubeは、いかにも癒やし系の音楽に猫のゴロゴロいう声が混じったもの。iPadで流す音楽は、音楽がほとんどなく、猫のゴロゴロいう声だけが聞こえるものだった。ほぼ体が動かなくなってからも、夜毛布をかけて寝かせたのに朝になったらiPadのほうに這いずっていった姿をみることができた。やはり癒やしの効果はあったみたいである。

四月二十三日、弱った体にてんかんの発作がくるととてもかわいそうなことになるので、胃に負担がかかるだろうとは思いつつも、セルシンを飲ませた。すると、トロトロのエサを三袋も食べた。うかつな私は、このことで、まだしばらくはもつなと勘違いする。

四月二十五日、ぴーさんが亡くなる一日前、仕事が忙しくてなかなか会えない息子が突然、ぴーさんのお見舞いに行くと言って、会社帰りにきてくれた。優しく言葉をかけ、ペット用のウェットテッシュで体を拭き清めてくれた。声をかけるとすこしは反応もあったみたいで、ほんとにギリギリのタイミングであった。息子は生まれたてで命の危機にあったぴーさんを救い、最期を看取ったことになる。よかった。

そして、翌四月二十六日。旅立ちの日を迎える。ぴーさんの臨終を伝えると、息子はすぐさま動き、イオンのペット葬儀サービスに連絡して、慈恵院というペット葬専門のお寺に予約を入れてくれた。禅宗のお寺である。木曜日が午後に会議の入っていない唯一の日であったらしく、二十八日に火葬ということになった。車で迎えにきてくれるという。
妻とぴーさんの遺体をAmazonの箱に安置した。やはり最期は好きだったAmazonの箱がよかろうということになった。
チューリップと百合の花を添えた。びすが百合の花を囓ろうとしたので、あわてて妻は百合の花をビニールでくるんだ。
ぴーさんを火葬するときには、なにを入れるかで悩んだ。
「ぴーさんの好きなものってなんだっけ」
「好き嫌いなかったからなあ」
チュールを入れることにした。それから写真。妻が過去の写真を発掘し、三匹が揃っている奇跡的なショットやぴーさんとまうこさん、ぴーさんとりんごちゃんの写真をセブンイレブンのネットプリントサービスで印刷した。
「むこうの世界で会えるといいね」
「先にいったふたりは、むこうでも喧嘩しているのかね」
などといいつつ、用意をととのえた。
死後すぐはやわらかかった体が、数時間後にはもう硬直をはじめていた。
火葬のことは詳しく書かなくてもいいだろう。
印象に残ったことだけすこし。
お坊さんが二度読経してくれた。そのうち一度は「深川家愛猫ぴー」という声が聞こえ、私は驚いた。そういうサービスをしてくれるのは神道の祝詞だけかと思っていたのだ。禅宗のお寺がこんなサービスをしてくれるなんてね。

軽くなってしまったぴーさんは小さな壺のなかに収まり、いま一階のリビングの机の上にいる。そのうち、サイドテーブルを片付けて、その上に安置してあげるつもりだ。そのうちがいったいいつになったらやってくるのか、無精な私たちにはわからない。ぴーさんは空の上で苦笑いしていることだろう。

(了)

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