コロナ禍の中での日々

2ヶ月近く、緊急事態宣言によって保育園が休園となったため、就活もお休みして朝から晩まで2人の子供との蜜な生活をしていた。

当初は、玄関先に出ることもままならない状況なったので、本当に蜜。徐々にストレスが溜まるお互いの気持ちをなんとかやり過ごしながら、料理に洗濯にと気持ちを入れて子供との距離も縮めて過ごした。

正直なところ、臨時休園ということもあり、保育園は事前報告の形で通うこともできた。うちの場合、私が障害者であることは園側も承知の上なので、それを理由に預けることもできたのだけれど、何しろ調子が悪くない。本来であれば、てんかん1級ともなると、火を扱うことが許されない。風呂も監視者がいなければ危険とされている身だ。が、発作がなくなって1年以上。気を許すわけにはいかないけれど、そもそもこの数年は早朝に瞬間的な発作しかなかったから(その前は人格障害があったので、会社もよく雇い続けたものだ)、キッチンに立つことも風呂に入ることも、さほど緊張感をもたずにいた(妻は心配していたけど。最近はしない)。

子どものストレスは、要望の強さへと変換され、2人は4倍となり、それを1人でこなしていた。まー、仕事してる身に比べたら、大変じゃないかも。編集の仕事してましたけど、頭パニックになる覚悟で望みますから。あれこれ一度にやらないと回らないので。

でも、さすがに緊急事態宣言が解除になりかけた頃、こちらのストレスもピークを迎えて、つらいと妻にこぼし、妻に子どもを連れて実家に行ってもらった(車で30分ほど)。

ストレスの原因としては、大学の勉強もあったので。前に書いたのですが、社会福祉主事の資格が取れないものかと考えていて、必要な大学の単位を取得したくて結果的に放送大学を選択したのですけど、コロナ感染のためにこの選択が幸いだったというか、家の中で学ぶことができた。

ところが、一日中子どもの相手をしなきゃならないものだから、時間が取れない。中間テストのようなものがあって、それを通過しないと本試験を受けられないのだけれど、そのためには最低でもテキストの読み込みの時間が必要だったわけです。

社会学、教育学、心理学、あとオマケで博物館概論と著作権法を学んでた。テストは教育学以外は10問のチェック式の答案を提出、あるいはWeb上で回答すればよいのだけれど、教育学だけは2000文字でのレポート提出ということで、1日かけて取り組む必要があって時間が必要だったと。

教科書を読み込んだ上で、内容を練って、書くのが1日。なので、最低4日? 何とかなったかな。

こんなかんじですー。


 「教育」には、哲学的、心理学的、そして社会学的な側面があり、なかでも社会学的な側面、いわゆる教育社会学では、教育を客観的・実証的に研究を行う。フランスの社会学者エミール・デュルケムはこのことを「教育現象を社会的事実としてとらえる」と表現しており、教育とは主体が客体を拘束することで社会的価値観を内面化させようとするものと考え「方法的社会化」だと定義した。日本の社会学者の清水義弘はデュルケムの考え方を次のように要約した。
 「教育とは、成人世代によって、社会生活に未熟な世代のうえにおこなわれる作用である。教育の目的は、子どもが入るべく運命づけられている全体としての政治的社会や、特殊的環境が要求しているところの一定数の身体的、知的、道徳的状態を子どもに植え付け、かつこれを発達させることである。一言にして言うならば、教育とは、若い世代の『方法的社会化』である。」
 教育の考えにおいて重要なのは、政治的社会である国家と、家族や地域社会などの個人の特殊的環境の要求に応えることを目的としている点であり、教育は社会的な行為であるということだ。
 社会的な行為を「方法的に」認識させるために制度化させたものが近代学校であり、方法的な社会化を公共に開き、公共に提供した教育を「公教育」と称する。
 教育の目的は社会的・国家的価値を付与することであるが、これは教育をしようとする者の意図であり、受ける側がその意図を内面化するとは限らない。捉え方は一様ではなく、受け手側の生活環境を構成するあらゆる事物に人間は意味を読み取り主観的に意味を与える。このことは「象徴的相互作用」呼ぶ。
 その上で、人間の発達段階には教育環境が必要であり、身近な領域として家族、学校、地域に分野分けした際に、学校は「派生的教育環境」と規定され、学校、家族、地域が三位一体となり機能することが教育環境の理想とされる。
 しかしながら、現代においては生産力の増大、生活圏域の拡大に伴う、社会的分業の影響が大きく反映されてくると考える。家族員内の役割の分業が行われたことにより、家族構成の変化に伴う世帯規模の縮小、少子化と女性の居宅外就労、大都市圏域への流入による家族の核家族世帯化などにより、日本人の生活様式、とくに地域生活のあり方が大きく様変わりした。地域への定着性の減少、人間関係の希薄化などが、子どもの教育環境に変化を与えてきた。そうした中で、学校教育には馴染まず、フリースクールを選択する子どもも増えているという側面もある。
 身近なところでは、新型コロナウイルスの拡散による自粛要請による社会環境全体の変化の影響が子どもの教育環境でも問題を露呈させている。ウイルスの影響で、三密での接触が制限されているなかで、休校が長引く児童・学生がどのように教育環境を保っていけるかと考えると、家庭によっては親がリモートワークによって自宅就労を行っており、多少の時間を子どもの教育に割くことができる場合もあるかもしれない。または親が居宅外就労を余儀なくされるために放課後児童クラブの援助、つまり地域力だけに頼らなければならないケースもあるかもしれない。これは核家族化の進行が招いた社会的な課題でもある。
 また、長引く休校に伴い教育格差も生まれる。IT化が進む中で、自治体によっては公立校でもオンライン授業やタブレット端末を活用した学習が受けられる子どももいる。一方で、それが叶わない自治体や家庭環境に置かれている子どももいる。加えてIT化が貧弱な環境にある子どもは、仲間の存在と空間の限定がより明確化することにより、精神的な面でも意欲や関心が薄らぐといった精神的なダメージを受けると考えられる。その反面、「サンマが無くなった」という表現の中の時間だけに余裕ができ、子どもや家庭だけで対処することの難しさも露呈し、公教育の果たしている役割を認識している。
 これらのことから、私は次のように考えた。教育は、確かに「象徴的相互作用」が働きつつも、与える目的を明らかにして付与することで、子どもたちの発達段階において重要なものであるし、家族、また地域社会の動静を踏まえて「公教育」のあり方に着目すると、子どもにとって一定の期間までは必要な機関と再認識した。その上で課題としては、地域や家庭環境による教育環境の格差が露呈したが、これは災害も含めた非常事態において休校への対策を検討していくこと。また、公教育であるからには全国で一定の教育レベルが担保することが求められる。そのうえで、公教育制度以外のフリースクールのあり方や運営のあり方から、学べる点があるのではないかと考えている。


要するに、コロナによる教育格差ですよ。

まー、おっさんになってから学ぶのも楽しい。でも、いい加減働くぞ。就活再始動です。




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