42. この道の経過

紆余曲折を経て、または種々の縁ありて仏道にいるわけですが、そういえば30過ぎぐらいまで縁という漢字は緑だと思っていた。なんで各色あるなかで縁は緑なんだろうと、かといって調べるわけでもなく生きてきたわけですが、でも緑のしなやかさとかあたたかさ、強さやさしさ、そういったありがたさがあって、六道を離れたところに生命の緑はあって、崇められ恐れられ尊ばれ、神様とかそういったものであり、だから縁は緑で不思議なかったんかなといまになって考えてみるが、単に想像のものなので正しさとかはまったくないので悪しからず。

思いっきり身体が壊れているわけではなかったが、下手すれば余命宣告されてもおかしくないぐらいの状況があった。それを聞いた瞬間の真っ白というか込み上げる緊張感というか、まじでかってパニックはあったものの、結果を聞く前にものの数分で落ち着いた自分を感じて、それなりに成長したもんだな、身につけたものは間違っちゃいなかった確信があったわけですが。穏やかな生活、静かな日々、それは環境とか何だとかでどうにかなる代物ではなく、自らがどう生きるかっていうところでしかないわけです。どうしたって波風は立つ、水面は揺れる。それらがあった時にどう対処していくか、どう落ち着かせていくか、当然に大きなショックは受けていい、そこからの立ち直りの時間をどう短縮していくか、そこが大事な点ではなかろうかと思うところであります。

とはいうものの、あらゆる執着を離し、自分すらも執着から離すことができたなら、それこそいうところの悟りであって仏であろう。可能か不可能かはどうなんでしょうね、人類でひとりはその地点に行ったらしいけど、その後はどうかな、いるっていう希望のほうが好きだ。そうであるとしても、大切な他者は離さないでおきたいと思います。そのほうがより人間らしい、仏にという話からはちょっとおかしいか、でも人間としてそのほうがかわいらしい、好きなんでしょうね、けっきょくは。そこを切り離して仏にはならない、少なくともわたしは、どうかお赦しください。

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