<短編小説>フルフールエイプリール

<1>

『アンケートのご協力をお願いいたします。
一億円で、十年時間を戻せる権利が、発売されました。
購入しますか?』

帰宅してすぐに、スマホにそんなメールが、送られてきた。
「くだらねえ」
 舌打ちとともに吐き捨てて、スマホを万年床の布団に投げた。一億円なんか都市伝説並みに、リアリティがないし、ガキ臭い表現だと鼻で笑った。そう言えばと、スマホを手に取り確認すると、今日は四月一日であった。エイプリルフールという奴だ。まだ、こんなくだらない事をして、喜んでいる奴がいるようだ。
 どうせなら、俺の人生そのものが、嘘であって欲しいものだ。
 もしも、宝くじで一億円が当たったら何をするかとか、あの時に戻れたら何をするかとか、そんな妄想は飽きるほどした。歳を重ねる度に、理想と現実の差が広がる一方で、『死にたい』が口癖だ。Fラン大学出では、まともな就職に在りつけず、ようやく滑り込んだ会社は、高卒中卒ばかりの零細企業だ。大手自動車企業の孫請けの工場で、連日油にまみれている。やりたくもない仕事を嫌々やって、手取りは十八万。毎日文句ばかりを垂れ流しつつも、十年間もすがりついている。
 雀の涙ほどの金を握りしめてパチンコ店の肥やしになり、勝ったらご褒美にキャバクラだ。三十を超えて、腹のたるみと白髪が目立ち始めた。昔は、女に不自由しないルックスだったけれど、今では金を払わないと会話すらできない。
 シャワーで汗を流して、冷やしてある発泡酒を流し込むのが日課だ。残業をしてもたいした額にならないけど、しなかったらもっと悲惨だ。三缶目の酒を流し込んだ。
 人生なんか、死ぬまでの暇つぶしだ。
 暇を持て余して、スマホをいじる。体は疲れているし、死ぬほど暇だ。でも、寝るのが嫌だ。寝たら朝になって、また行きたくもない会社に行かなければならない。
 ふと、先ほど送られてきたくだらないメールを思い出した。
―――十年前に戻れたら、こんなくだらない人生を送りはしない。
 一億なんて金ある訳がないけど、暇つぶしくらいにはなるだろう。俺は、アンケートの『購入する』という文字にチェックを入れた。
『アンケートのご協力ありがとうございました。厳選なる抽選の結果は、追って発表いたします』
 メールが送られてきた。その後に、続く文字に目を奪われた。正賞は、一億円で十年時間を戻す権利の購入だが、副賞として現金十万円がもらえるそうだ。俺には、現金十万円の方が、よっぽど魅力的だ。
 発泡酒を飲み干し、万年床の布団に仰向けになった。学生時代から住んでいるワンルームの狭い部屋では、周囲の部屋の生活音が駄々洩れだ。十万円が手に入ったら、引っ越しをしたいものだ。しかし、貯金がないし、十万円では足りない。まずは、パチンコに行って、増やそうか。
 未来の事を考えると、死にたくなる。このまま一人で、判を押したような毎日を繰り返すのだ。学生時代は、楽しかった。女に不自由した記憶もないし、友人も多かった。こんな惨めな姿は、微塵も想像していなかった。俺は、特別で周囲から羨まれる『何者か』になっていると疑わなかった。
 溜息で満ちた狭い部屋で、窒息しそうになっている。自分以外の人間が、やけに幸せそうに見えた。なぜ、俺だけ、こんな目に合わなければならないのだ。誰のせいだ! 誰を吊るし上げれば救われるのだ! また一つ、深い溜息が漏れた。
 諦めて、今日という日を終わらせようと、部屋の電気を消した―――その時だった。
 部屋にチャイムの音が鳴り響いた。こんな時間に誰だ?
 スマホを見ると、日付が変わる少し前であった。苦情など身に覚えないし、出たところでロクな事もないだろう。こんな時間に部屋を訪れる非常識な奴と関わりたくもない。このまま居留守をする事にした。しかし、チャイムは鳴りやむどころか、激しさをます始末だ。挙句の果てには、ドアを叩きだした。苛立ちと少しの恐怖心が生まれている。
 このままでは、本当に苦情がきそうなので、忍び足でドアに歩み寄った。片目を閉じ、のぞき穴から外の様子を伺う。すると、小さな男の子が、ドアを叩いていた。瞬間的に安堵感が芽生え、苛立ちが増した。玄関ドアを勢いよく開いた。
「うるせえな! 何時だと思ってんだ! 馬鹿野郎!」
 怒鳴り声を上げると、近所迷惑になるし、悪目立ちしてしまいそうなので、声を押し殺した。極限にまで顔を歪めて、精一杯威圧感を出す。
「あ、これはこれは、申し訳ございません。私は、オレンジと申します。怪しい者では、ございません」
 少年は、満面の笑みを浮かべて、俺を見上げている。小学生くらいの男の子が、真っ黒なスーツを着ている。ネクタイはオレンジ色で、そこだけがやけに目についた。怪しさしか感じない。俺が無言のまま、睨みつけていると、少年は白い歯を見せた。
「アンケートのご協力ありがとうございました。並川様、見事当選いたしましたので、一早くご報告に伺いました。善は急げと言いますしね。こちらは、副賞でございます」
 スーツの内側に手を入れた少年が、白い封筒を差し出してきた。そんな怪しい物受け取る訳がない。無言のまま眉に皺を寄せ、白い封筒を見下ろしている。すると、少年は急かすように、封筒を上下に振る。その姿が、おちょくっているように見えて、苛立ちが増した。
「あれ? いらないのですか? もらえるものは、もらっておいた方が良いと思いますがねえ」
 少年は、封筒の中に指を突っ込んで、中から一万円札を引き抜いた。福沢先生が俺を見ている。
「ばっ! 馬鹿!」
 反射的に少年を家の中に入れて、顔を左右に動かして廊下を確認した。誰も見ていない事に胸を撫で下ろし、ゆっくりとドアを閉めた。一息ついて振り返ると、少年は靴を脱いで勝手に部屋の中にいた。いつの間にか、電気もつけている。思わず得体のしれない子供を部屋に入れてしまったが、いざとなれば武力行使でなんとでもなる。少年は、物珍しそうに部屋の中をキョロキョロと物色していた。
「なんなんだ、お前は!? 勝手に触るんじゃねえよ!」
「私は、オレンジと申します」
 少年は悪びれることなく、真っ白な歯をニカリと見せた。別に名前を聞いた訳ではない。少年は、右手をスッと伸ばして、封筒を差し出した。
「まずは、この副賞をお受け取り下さい」
俺は、少年の手から封筒をひったくった。封筒の中から一万円札を抜き取り、少年をチラリと見た。相変わらずの満面の笑みを浮かべている。突然、一万円札が十枚降って湧いて、思わず口角がつり上がった。
「それでは、並川様! 改めまして、ご当選おめでとうございます! たった、一億円で、十年間時間を戻せる権利を獲得いたしました!」
「たった? たっただと? ふざけんな! それよりもお前! どうして、俺の名前や住所が分かったんだ!?」
 確かに、暇つぶしでアンケートには答えたが、名前や住所の入力はしていない。俺は、『購入する』という欄に、チェックを入れただけだ。すると、少年は、心底不思議そうに首を傾けた。耳が肩に当たりそうな程で、その姿は奇妙で気味が悪い。

<2>

「時間を戻す事が出来るのですよ? 名前と住所くらい分かりますとも」
 確かにそれが本当なら、それくらいは・・・いやいやありえないだろ。妙に説得力があったが、このまま丸め込まれるのは、釈然としない。
「まさか、ハッキングか?」
「そんなチープなものでは、ございません」
「じゃあ、なんだよ!? アンケートに答えただけで、個人情報が抜き取られたんだぞ! そんなもの聞いたこともない!」
「並川様が知っている事だけが、この世の全てではございません」
 少年は、駄々をこねる子供を諭すように優しく微笑んだ。少年は『さて』と、体の前で手を合わせた。
「無用な問答はこれくらいにして、本題に入りましょう。並川様は、『一億円で十年間時間を戻す事ができる権利』を獲得されました。勿論、権利を行使するも破棄するも、並川様の自由です。いかがなさいますか?」
「そ、そんな胡散臭いものに、手を出す訳ねえだろ!」
「そうですか。承知しました。それでは、失礼します」
 少年は、背筋を伸ばし、右手を胸に当て、お辞儀をした。顔を上げた少年は、微笑みながら俺の横を通り過ぎた。
「お、おい。ちょっと、待てよ」
「なんでございましょう?」
 少年は立ち止まり、振り返った。微笑みながら、顔を傾けている。なぜ呼び止めたのか分からず、茫然と少年の顔を眺めていた。こんな胡散臭い奴を、このまま帰しても良いのか。この十万円は、もらっても良いのか。その後、なにかトラブルに巻き込まれはしないのか。頭の中でグルグルと、疑問が浮かんだ。
「・・・本当に、時間が戻せるのか?」
「ええ、勿論でございます」
 あまりにも真顔で少年が見つめるから、俺は続く言葉が出てこなかった。
「並川様は、今幸せですか? 充実した日々を送っておいでですか?」
 宗教の勧誘じみた言葉に、心臓が高鳴った。俺は思わず、少年から目を逸らす。
「並川様の思考を察するに、『今よりも不幸になりたくない』という事でしょうか。すなわち、まだ下があるという事です。まだ地の底にはいないとお思いのようですね。では、今のままでもよろしいのではないでしょうか? では、私はこれで」
 軽く会釈をする少年は、背を向けた。奴の言った通り、俺が考えていた事は、『現状よりも状況を悪化させたくない』という事だ。詐欺に合ったり、トラブルに巻き込まれたり。
 今のままで良い? そんな訳あるか!
「・・・一億円なんていう大金ある訳ねえだろ」
「あ! これは、これは、大変失礼いたしました。私とした事が、肝心な事をお伝えする事を忘れ
ておりました」
 少年は、深々と頭を下げる。その態度が、わざとらしく見えた。
「今回は、キャンペーン中でして、二つの特典が与えられる事になっております」
「二つの特典?」
なぜ、それを先に言わなかった。俺の反応を見ていたのだろうか。少年は、人差し指を立てた。
「一つ、あなたの命を担保に、一億円をお貸しいたします」
「俺の命?」
「ええ、そうです。一億円は、十年後に返済して頂ければ結構です。つまり、十年前に戻り、一億円を稼いで、今日と同じ日に返して頂きます。その際、返金が不可能でしたら、担保を回収致します」
 もしも、返済できなかったら、俺を殺すという事なのか。少年は、思惑とは裏腹に、穏やかな笑みを見せる。
「十年で、一億円なんか、稼げる訳ねえだろうが」
「そこで、二つ目の特典です」
 少年は、中指を立てて、ピースサインを送った。
「現在の記憶をそのままで、十年前に戻します。これならば、一億円など容易いものです。この十年で流行したサービスや作品を思い浮かべれば、お金などいくらでも手に入るでしょう」
 確かに、こいつの言う通りだ。でも、本当に、そんな事が可能なのか。やはり、騙されているに決まっている。そもそも、時間を戻すなんて、あり得ないだろう。そんな事を考えていると、少年が深く溜息を吐いた。呆れたように、顔を左右に振っている。
「私は、どちらでも構いません。申し訳ありませんが、私も忙しい身です。並川様にご納得して頂けるまで、説得する気もございません。そんな時間、ありません。時は金なりとは、良く言ったものです。この権利を欲している方は、星の数ほどいらっしゃいます。そして、この権利に当選した以上の奇跡は、今後の人生では訪れません。死ぬまで、現状の姿をお送り下さい。もう一度、言います。私は、どちらでも構いません。今、この瞬間にお決めになって下さい」
 少年は、突き放すように、先ほどまでとは打って変わって、冷たい視線を送ってきた。こんな子供に・・・ちくしょう!
「ふざけんな! やれるもんなら、やってみやがれ! 本当に時間が戻せるなら、やってみろよ!」
 頭に血が上った俺は、見境なく怒鳴り散らした。すると少年は、満面の笑みを浮かべた。
「承知しました! それでは、並川様! ご案内ぃ!!」
 パチンと少年は指を鳴らし、俺は意識を失った。

<3>

 薄っすらと目を開けると、もう何十年も見ている天井のシミが視界に入った。朦朧とする意識の中で、ゆっくりと頭を上げて部屋を見回した。いつにも増して、気怠い。頭の上の床を手で撫でる。なかなか、スマホの感触が伝わってこない。
 いつも以上に頭が冴えないのは、きっと昨夜見た夢のせいだ。あまりにも、リアルな夢を見た。思わず吹き出してしまう。夜中に突然子供がやってきて、一億円で十年時間を戻すと言い出したのだ。時間を戻すという異世界転生並みの現実逃避だ。願望が、とうとう夢にまで現れるようになってしまった。
「あ! やべっ! 仕事!」
 布団に手をついて、起き上がろうとした時、クシャッという音と共に、右手に違和感を覚えた。右手に視線を向けると、息が止まり瞳孔が開いたのが分かった。
 右手の下に、数枚の一万円札が散らばっている。大慌てでスマホを探すと、テーブルの上に置いてあった。もう確認するまでもなかったのだが、念の為にスマホの画面を見た。四月二日と画面に表示されているが、何年なのか分からない。スマホを操作し、愕然とした。
「・・・本当に、十年戻ってやがる」
 もう疑いようがない。懐かしむように、昔使っていた古いスマホをいじる。それから、部屋の中も念の為確認する。もしかしたら、時間を戻した連中が盗撮や盗聴をして、監視しているのかもしれない。しかし、すぐに思い直して諦めた。時間を戻せる奴らが、わざわざ機械に頼るとも思えない。部屋の中は、驚く程変わっていない。時間が戻った実感がまるでなかった。そこでようやく、洗面所へと駆け込み鏡を覗いた。そこには、見覚えのある若いイケメンがいた。そう、十年前の俺だ。シャツを脱いで鏡を見ると、引き締まった体が眩しかった。ストレスで暴飲暴食を繰り返し、ニ十キロほど太ってしまった醜い体ではない。顔の皺も白髪もない。すると、腹の奥の方がむず痒くなってきて、我慢できずに爆笑した。こんな奇跡が本当に現実で起こるものなのか。この奇跡の代償が『十年で一億円の返済』だ。
 俺は、未来の出来事を知っている。未来予知なんていう曖昧なものではなく、未来知識だ。まずは、記憶が薄れる前に、未来の出来事を紙に書き記しておく。完璧な未来設計図を描きておこう。
 大学で使用しているノートをテーブルに広げた。ペン先を紙に置いた時に、突然部屋にチャイムの音が鳴り響いた。大袈裟に体が反応して、反射的に玄関へと顔を向けた。暫く、茫然としていると、何度もチャイムを鳴らされた。息を飲んで、玄関ドアへと忍び寄る。のぞき穴に片目を持っていくと、そこには女性が立っていた。小さな男の子ではなく、心底安心した。やはり、なにかの手違いだったと言われたら堪らない。ゆっくりとドアを開けた。
「もう! 寝てたの? おはよう、道明」
 若い女性が、少し膨れた後に、満面の笑みを浮かべた。彼女の顔を見て、思わず息を飲んだ。驚く程可愛い若い女性だ。茫然と見とれてしまっていた。
「ん? なに? 中に入れてよ」
「な、中に入れる?」
「部屋の中! ・・・もしかして、浮気でもしてたの?」
「い、いや、してないしてない! 部屋の中ね! あ、はい、どうぞ」
 浮気を疑われても言い訳のしようのない程、驚き戸惑ってしまった。そもそも、この子は、誰なんだろう。まるで、記憶にない。こんなにも可愛い子を忘れるはずがない。しかし、学生当時の彼女の事を思い出そうにも、ほとんどの顔が出てこない。それもそのはずだ、当時は彼女をとっかえひっかえしていた。元カノの事なんか、いちいち覚えていない。
「ねえ、今日は買い物に行くんだから、早くして。約束、覚えてる?」
「あ、はい、買い物ね。覚えてます」
 十年前の約束なんか、覚えている訳がない。彼女は、万年床の布団の上に座り、ジッと俺の事を見てきた。
「どうして、敬語なの? 怪しいなあ」
「え? ああ、ごめん。寝ぼけてるだけだよ」
 なんとか、冷静を装って、彼女のそばに歩み寄る。こんなにも可愛い子が、俺の部屋にいるなんて、合成のようだ。まるで、現実味がない。先ほどからずっと、心臓が激しく脈を打っている。女の子と会話する事が、久し振り過ぎて口が上手く回らない。身振り手振りを交えてなんとか説明すると、彼女は次第に笑い出した。説得が通じたというよりも、俺のテンパり具合に可笑しくなってきた様子だ。
「もう分かったから、早くして」
 笑った顔から覗く八重歯が、彼女の可愛らしさの演出に一役買っている。とにかく買い物に付き合う為に、早く着替えなければならない。すると、彼女が俺の足元に座り直し、ズボンを脱がせてくれた。こんな贅沢な経験をしていたとは、自分の事ながら許せない。俺を見上げる彼女を見つめていると、彼女がパンツまでも下ろし始めた。
「え? え? え? な、なに?」
「なに? じゃないよ! 今日は買い物に行きたいの! 急いでるの!」
 下ろされたパンツを履き直そうとすると、彼女に止められた。
「だから、早くして! いつも、してからじゃないと、なにもやる気でないって言ってるじゃん!」
 俺は仁王立ちのまま、彼女を見下ろしている。本当に俺の人生に、こんな夢のような出来事があったのだろうか。
 色々とやる事は、沢山ある。十年で一億円を稼がなければならない。だけど、折角だから、今はこの瞬間を楽しもう。まだまだ、時間的猶予は残されているのだから。
 まずは、俺の下で懸命に動いている彼女の名前を、思い出す必要がありそうだ。

<4>

さてさて、どうなったのだろう。まあ、ぶっちゃけ、もう既に察しはついている。ここに来るのは、十年振りだ。古びたアパートの外部階段を、せっせと上っていく。目的の部屋の前に立ち、舌なめずりをした。自分で言うのもなんだけど、なかなかいい性格をしている。
 玄関扉の横に設置されたインターフォンを押した。部屋の中にチャイムが鳴り響いている。しかし、何も反応がない。ニヤリと口角を上げ、インターフォンに何度も力を入れた。これは、予想通りの反応だ。拳を握りこみ、扉を殴りつけた。息を殺し忍び足でこちらに迫ってくる気配を感じた。私は、歯を見せるように笑みを作り、手を振った。スコープから、こちらを覗いているのが分かる。ガチャリと解錠される音が鳴り、扉が躊躇うように開いていく。上半身を横に傾け、扉の隙間を覗き込んだ。そこには、虚ろな目をした中年の男が立っていた。
「どうも! お久しぶりです! 並川様! ご機嫌いかがですか?」
 声を張った私に、男はあからさまに不快な表情を見せた。
「誰だ? お前?」
「またまたあ! お約束のブツを頂きに参りました」
「いや、なんの事かさっぱり分からねえよ! 約束? なんの約束だよ? 約束したっていう証拠でもあるのかよ?」
 深い溜息を吐いて、顔面に張り付けた笑顔の仮面をはがした。顔の前に手を持ち上げて、親指と中指を合わせた。
 パチン! と、音を鳴らすと、男は糸を切られた操り人形のように、崩れ落ちた。部屋の中に入り、横たわる男の足を掴んで歩いていく。
「ちょ! ちょっと待ってくれ! 頼む! 話を聞いてくれ!」
 土足のまま部屋の中央まで進み、布団の上に男を投げ捨てた。
「話ですか?」
「ああ! そうだ! 俺が悪いんじゃないんだって! 周りの奴等が、邪魔ばっかりするから、俺は何もできなかったんだよ! あいつらのせいなんだ! 俺は悪くないんだよ!」
「邪魔ですか?」
 ああ! と、男は必死で訴える。聞くに堪えない幼稚な言い訳の数々に辟易とした。
「つまり、遊んでいたという事ですね?」
「いや、だから! 俺のせいじゃないんだ! 頼む! もう一度、時間を戻してくれ! 次こそは、ちゃんとやるから! 邪魔者どもとは、金輪際キッパリ縁を切る! 今では、疎遠になってる連中ばかりだから、簡単だ! 次は、二億返すから! お願いだ!」
 この男は、何を言っているのだろう。お前が見限られただけだろう。
「こんな奇跡的なチャンスは、一度だけです。いや、本来なら、一度だって起こらないのです。目先の快楽に溺れ、面倒事を後回しにしてきたツケです。何十回繰り返した所で、結果は同じです。残念です」
 体が弛緩して動かない男は、唯一動く口を懸命に回す。お前の言葉には、なんの価値も重みもないというのに。口だけの人間ほど、信用から離れた人間はいない。醜くも喚いている男の顔の前に手を差し出した。親指と中指を合わせる。
「世界はあなたの為に回っている訳でも、あなたを中心に据えている訳でもありません」
 パチン! と、指を鳴らした。男は、動かなくなった。男の開いた瞳孔に映るのは、体温が消え失せた私の顔だ。
「覚えておいて下さい。馬鹿は死ななきゃ治らない。あ、もう覚えられませんね。失礼しました」
 横たわる男を跨ぎ、部屋を出た。階段を下り、少し離れた場所で振り返った。古いアパートを眺め、深い深い溜息を吐いた。
「やあ、オレンジ! お疲れ! 溜息を吐いていたら、幸福が逃げちゃうよ!」
 背後からの声に振り向くと、同僚のキウイが手を上げていた。
「お疲れ! 溜息も吐きたくなるさ。君はどうだったんだい?」
 私の問いに、キウイは両手の平を上に向け、肩を持ち上げた。同じ結果だったようだ。
「もっと、人選を考えて欲しいものだね。敗戦処理をするこっちの身にもなって欲しいものだ」
「まったくだね。でも、スイカとバナナは上手くいったようだよ」
「て、事は、私達の引きが悪いという事か」
 私とキウイは、肩を落として帰路についた。キウイの話では、スイカの客は、動画配信で成功を納め、バナナは意中の女性と結婚したそうだ。
「ん? 意中の女性と結婚したのは、おめでたい事だけど、それで一億回収できたのかい?」
「ああ、その人は、女性に猛烈にアタックしつつ、ビジネスでも成功したようだ」
「それは凄い! そんなスーパーマンに当たりたいものだね。そんな人なら、時間を戻さずとも成功しそうなものだけど」
「よほど、現実を変えたかったんだろうね。結局変われるのは、強い意志がある人間だけだよ。口先だけの愚痴なんか、クソの役にも立ちはしない」
 本日は、四月一日。盛大な馬鹿が、踊らされるには、おあつらえ向きだ。
 さて、次はどんな人間に出会うことやら。
 生まれ変わり、キラキラと輝く姿を見せて欲しいものだ。

<完>


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