日蓮聖人の諸宗批判 序論

こちらは、令和二年一月に完成しました卒業論文である「日蓮聖人の諸宗批判」における序論及び第一章の部分です。この部分だけ試し読みとして無料公開致します。


序 論

 私が論文のテーマを「日蓮聖人における諸宗批判」とした理由は、私自身が日蓮教学に対しての疑問を抱き、なおかつその解決を志さんが為である。
その疑問とは、久遠本仏というすべての絶対的な根源であり(妙法蓮華経如来寿量品 久遠実成)、一切衆生の主師親(譬喩品)であり、仏界十界を体現する三身即一の存在であると解釈した場合、何故そのような存在が久遠から我々を化導しているにも関わらず世に謗法が充満しているのだろうか。あるいは、世に浄と不浄があり、仏界に九界が生じているのだろうか、という事である。   
この問題を解決すべく一つの仮説を出したのが、禅宗の臨済禅に説かれる仏の三不能(1)の一つである全ての衆生を化導する事は出来ないという考えやこの娑婆世界は仮であって、他に有縁の浄土があるのだとする浄土思想であり、これらに一往の答えを見出す事も出来る。しかし、殊更に法華経に立って考えるのであれば全ての存在は成仏していく存在であり、その為に久遠本仏は今この瞬間も菩薩行を積み人々を常に教化している。寿量品の「我本行菩薩道」乃至「常住此説法」「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」の意味であると解釈する。更に深く思惟すれば久遠本仏と我々は同体であり、我々が仏の位を継ぐという事は久遠本仏との同化に異ならず、別の角度で表せば久遠本仏と我々は過去も現在も未来も常に同体なのである。故に我々は無始以来の輪廻を続けており、本来清浄な仏性から苦界が生じ、第九識から八識が生じ、我々は常に生死して行を重ねている。行を重ねているが故に、万象には意味があり、我々の行いには意味があり、我々全てが久遠本仏を形成している。これが「我本行菩薩道」の経文、即ち久遠本仏は今この瞬間も成仏している存在であるといえる。
中古天台本覚思想は、法身大日如来にこれを求めるがゆえに完成した法身からは先に進むことが叶わなかったが、これは三身即一身、報身を中心とする久遠本仏であり、故に完成していない事をもって完成する。言い換えれば、今我々の活動や行を含めて、一瞬一瞬の積み重ねる成仏を含めて完成を繰り返しているのである。故に久遠本仏を中心としたこの考えは中古天台の跡を辿らず、その一歩先を生き続ける教理となり、また法華経の文化圏のみで成立する真理ではなく全ての世界において通用する真理、全ての存在を解釈できる真理であるものこそ久遠本仏直参の教学であるとの確信に至った。
再説するとこの世に謗法や苦界が存在するのはそれらが必要であるからであり、それぞれが必要に応じて久遠本仏の中に生じており、仮に仏道という名を知らなくとも、全ての存在は成仏を追い求めている。その意味を明かす事こそ法華経開会の思想、即ち絶待妙の境地と言いえよう。
しかし、この考えは法華経から発展した考えであり、これをもって真理と解釈するには、まず法華を最勝とする相待妙の考えが無ければならない。私は日蓮聖人が示された教えとはまさしく久遠本仏直参の相待妙教学であり、これ無くしては絶待妙開会の教学は成り立たない。故に日蓮聖人が示された真理、即ち相待妙は、聖人の時代においては正しく、我々の時代においては、更に歩みを進めてこれを絶待妙へと転換していく事こそが現代における真理であり、日蓮聖人の真理を更に意味のあるものとさせて、真の直参を示すことが相叶う。本論はその絶待妙の前段階、相待妙を日蓮聖人の視点から示して、それが時を経て絶待妙へと続くよう目指し執筆したものである。
 そこで、本論文ではまずはじめに、日蓮聖人の生涯を諸宗批判という視点から見ていき、そこから四箇格言に代表される諸宗や台密についての批判を諸宗の教理と並列して示して、相待妙教学を示していきたい。これまで、聖人の諸宗批判についての先行研究としては、管見する限り三十の論文が確認できる。これを列示すると次のようである
足立栗園「法華・浄土の宗論」(『批判的日本仏教史』所収〈驚醒社出版〉一八九九年)
柿沼勝孝「日蓮聖人の批判的精神」(『大崎学報』第五九号所収 一九二一年二月)
寺崎修一「日蓮の念仏排撃論」(『文化』第二巻八号所収 一九三五年八月)
増永霊風「日蓮上人の禅宗批判」(『法華』第三七巻三号所収 一九五二年六月)
田村芳郎「日蓮に於ける諸宗批判の根拠」(『印度仏教学研究』第三巻二号所収 一九五五年三月) 
川添昭二「日蓮の律排撃について」(『九州史学』第二号『御遺文における禅宗』所収 一九五六年一〇月)
宮井義雄「日蓮の宗教と専修念仏」(『同朋学報』第一二号所収 一九六二年一二月)
小松邦彰「日蓮聖人の台密批判について」(『印度仏教学研究』第一五巻二号所収 一九六五年一 
二月
岡田栄照「日蓮の禅批判について」(『印度仏教学研究』第一四巻一号所収 一九六五年一二月)
浅井圓道「他宗との論争」(『講座日蓮三 日蓮信仰の歴史』〈春秋社〉一九七二年四月) 
浅井圓道「日蓮の理同事勝批判とその検討」(『インド思想と仏教』〈春秋社〉一九七三年一一月)
中尾堯「日蓮聖人の浄土宗批判とその意義」(『日蓮教学の諸問題』〈平楽寺書店〉一九七四年一二月)
村松光一「安国論に観る浄土教と謗法」(『中央学術研究所紀要』第五号所収 一九七六年六月)
普賢晃寿「日蓮の法然浄土教批判と存覚の立場」(『真宗学』第五六号所収 一九七七年二月)
小林正博「日蓮の真言批判について」(『印度仏教学研究』第三五巻一号所収 一九八六年一二月)
小松邦彰「日蓮聖人と真言密教」(『日蓮教学研究所紀要』第一四号所収 一九八七年三月)
望月歓厚「日蓮聖人の宗教批判」(『日蓮宗布教選書』第四巻所収 〈同朋舎〉一九八三年六月)
関戸堯海「日蓮の浄土教批判と『一乗要決』の関連」(『宗教研究』第六二巻四輯所収 一九八九年三月)
三輪是法「日蓮の禅宗批判の基底」(『宗教研究』第六六巻四輯所収 一九九三年三月)
三輪是法「日蓮聖人の禅宗批判の基底」(『日蓮教学研究所紀要』第一九号所収 一九九三年三月
佐藤祐規「『立正安国論』と蘭渓道隆」(『印度仏教学研究』第四七巻一号所収 一九九八年一二月)
佐々木馨「日蓮と四箇格言」(『福神叢書』第二巻『日蓮的あまりに日蓮的な』所収 〈太田出版〉二〇〇三年二月) 
船岡誠「四箇格言をめぐって 日蓮と禅」(『福神叢書』第二巻『日蓮的あまりに日蓮的な』〈太田出版〉 二〇〇三年二月)
川添昭二「御遺文における禅宗」(『日蓮宗勧学院中央教学研究修会講義録』第十五号所収 二〇〇五年三月)
庵谷行亨「日蓮の禅批判」(『駒澤大学佛教学部論集』第三六号所収 二〇〇五年一〇月)
平島盛雄(盛龍)「日蓮聖人の真言批判についてー末法下種思想形成の一側面ー」(『桂林学叢』第一九号所収 二〇〇五年一二月)
山口成明「浄土宗批判ー選択本願念仏集を中心にー」(『法教学報』第一六号所収 二〇〇九年八 
月)
平島盛雄(盛龍)「日蓮聖人の五時教判における真言経典の位置づけー方等の部意をめぐってー」(『桂林学叢』第二一号所収 二〇〇九年一一月)
早瀬成慧「宗祖の台密破折に関する一考察ー一期御導道と御書の御教示を通してー」『法教学報』第二一号所収 二〇一四年八月)
ただし、本論ではこれらとは別に他宗派側からの反論や批判の検討も行っていくため、これらの論文を積極的には用いない。
 また本論中の法華経の経文については注釈を略す。
 以上のことを踏まえて、まず初めに聖人の略伝を述べたい。

(1) 唐の元硅が唱えたもの。北宋道原著の『景徳傳燈録』巻四に記載。一には無縁の衆生を度する事あたわず、二には衆生界をつくす事あたわず、三には定業を転ずる事あたわずの三つを指す。

第一章 日蓮聖人略伝

 日蓮聖人は貞応元年(一二二二)、安房国長狭郡東條郷片海小湊(現在の千葉県鴨川市天津小湊区)で生誕し、十二歳の時、清澄寺道善坊を師匠として仕える。清澄寺は慈覚大師造立の虚空蔵菩薩を本尊とする寺院であり、後述する通り当時は天台系の浄土信仰の色彩が強かったと考えられる。この頃より浄顕房と義城房ら兄弟子から教えを受け仏道の基礎を修学し、また清澄における天台系浄土信仰から念仏を唱えていた可能性が考えられる。今日現在は確認されていないが、『妙法比丘尼御返事』(真蹟無し)に
「阿弥陀仏をたのみ奉り、幼少より名号を唱候し程に、いさゝかの事ありて、此事をし故に」(1)
と記されている事から推察される。そして、嘉禎三年(一二三七)出家して是聖房蓮長と号したと伝えられている。
この直後か、虚空蔵菩薩の祈祷を修された事が『日蓮大聖人御傳記』(2)には見られる。この祈願を行ったのも、智慧を得る願であったと共に少なからず諸宗への疑惑があった可能性も考えられる。
出家から翌年、鎌倉に遊学。禅と念仏を学ぶ。ここでいう禅とは臨済系の禅、念仏は法然門下の専修念仏であったと推察される。当時、まだ禅宗は道元系の曹洞宗は発足したばかりで栄西系の臨済宗か大日能忍の達磨宗が世の禅宗と扱われており、栄西禅師と大日能忍のどちらも臨済宗系の相承を受けている。また念仏は法然門下の良忠が鎌倉で教線を展開しており、鎌倉遊学の後に書かれた『戒体即身成仏義』(仁治三年(一四二六)ご述作 真蹟なし)での念仏批判は法然の専修念仏に対してのものである為に鎌倉で学んだ念仏はこの良忠の関係である可能性もある。建長五年の清澄における立教開宗までの期間は諸山諸寺を巡り、自己の研鑽を深められたのであろう。『妙法比丘尼御返事』(弘安元年(一二七八)ご述作 真蹟無し)には
「倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申す宗ともあまた有りときく上に、禅宗・浄土宗と申す宗も候なり。此等の宗々枝葉をはこまかに習はすとも、所詮肝要を知る身とならはやと思ひし故に、随分にはしりまはり、十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々あらあら習ひ回り候ひし程に」(3)
と伝え、『日蓮大聖人御傳記』には遊学の順番を、鎌倉にて浄土→律→禅→真言と修学された後に京へ向かい五条近辺で儒学などの外典を習い東寺→比叡山→三井寺→南都(向原寺→元興寺→興福寺→東大寺→西大寺→薬師寺→法隆寺)→高野山→四天王寺と巡られたという形になっている。この鎌倉と京都の間に清澄へ帰り『戒体即身成仏義』を著されており、この時点(即身成仏義文末には仁治三年 一二四二年とある。)で台密僧蓮長の立場からの専修念仏に対しての批判が展開されている。そしてその念仏批判は建長五年(一二五三)四月二十八日に遊学から清澄へ帰った聖人の初転法輪において述べられた。
 清澄へ戻った聖人は最初の説法で念仏を批判した。この事により長狭郡東条の地頭である東条景信の念仏信仰と対立し、恐れた道善房から勘当を受けて清澄から退出した。同年、新たな拠点を鎌倉松葉が谷に移して名を「日蓮」と改める。この名前を聖人は『寂日房御書』(弘安二年(一二七九)ご述作  真蹟無し)で「如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇」の文意から名乗った事(4)を仰せになられている。更にこの改名した建長六年(一二五四)の正月には生身の愛染明王と不動明王を感見した事を『不動愛染感見記』(建長六年(一二五四)ご述作 保田妙本寺に真蹟あり)で仰せになられており、あるいはこの大日如来からの相承を受けた事や釈尊に日種、慧日という別称があるのも名前の由来の一つとなった可能性もある。新たな拠点と名前を得た聖人は富木常忍等の教化など初期の教団形成活動をされていた。一方、世間の情勢は天変地異とも言える災害により混乱が生じており、諸宗の祈祷が盛んであるのにかかわらず一見に効験を示さない現状を疑い、岩本実相寺の経蔵に入定して一切経を読まれた。そして正元元年(一二五九)、一切経読誦の成果である『守護国家論』(身延曽存)を執筆した。この『守護国家論』をもって念仏に対しての批判の大まかな方向性は完成しており、聖人はそれを生涯主張し続ける事となる。
更にその翌年の文応元年(一二六〇)、『立正安国論』(ご真蹟は中山法華経寺にあり)を著して前執権北条時頼に奉進。これをもって聖人の法華最勝の立場が鎌倉を中心とする世間に明らかとなった。それによって、同年八月二十七日に松葉谷の草庵を夜襲され、翌年の弘長元年(一二六一)五月十二日には伊豆流罪の憂き目にあう。しかし現地(伊豆伊東)では船守弥三郎からの帰依や地頭の伊東八郎左衛門の病治癒の祈祷を行った事からその帰依を受け、安定していたと思われ、その背景には八郎左衛門自身が日蓮聖人の弟子である日昭上人とは従兄弟関係にあった事から、あるいは日昭上人からの口添えがあった可能性も考えられるのでは無いだろうか。この伊豆で執筆した『教機時国抄』(真蹟無し)や『顕謗法抄』(身延曽存)からは五義の教判を始めとした聖人独自の考えが芽生え始める。
弘長三年(一二六三)伊豆流罪釈免の由が聖人に届けられ鎌倉に戻り故郷安房国に帰郷するが、その翌年の文永元年(一二六四)にも小松原で東条景信らに急襲されているものの、文永八年(一二七一)に至るまで房総や鎌倉を中心とした布教活動を行い、この間のご遺文には多く檀越教化の為のものが多い。またこの間、蒙古から使者が来り、更に対馬の島民二人がそのまま連れ去られる事件(文永六年 一二六九)が起きており、(この連れ去りは蒙古国内の様子を見聞させて国力を見せつける為。)幕府はこれらにより緊張状態が起きて、聖人はこの緊張状態が法華経不信の現証である事を説かれた。
 文永八年(一二七一)六月、幕府からの依頼を受けた律宗の良観らにより雨ごいの祈祷が行われる。良観は律宗であるものの、この時代の律宗は真言律の考えに基づく教団であり、いわば祈祷僧としての役割を持っていた。日蓮聖人は弟子を遣わし、効験の有無による対決を申し込んだ。日蓮聖人伝ではこの時に良観がその申し出を受け入れたとする事が多いが、良観側の資料が無いため定かではない。ここでは仮に聖人伝側の立場に立って受け入れたとしよう。さて雨乞いの修法を開始したものの効験が現れず、対決には敗北。この事件により聖人を恨んだ良観は法然門下の念仏僧である良忠と結託して聖人の排斥を画策。良忠の弟子である行敏により幕府に訴状を提出したのである。『行敏御返事』(文永八年(一二七一)ご述作 鷲津本興寺に真蹟断簡あり)に依ると「法華前教一切諸経皆是妄語非出離法」「大小戒律誑惑世間」「念仏為無間地獄業」「禅宗天魔説」の四点を理由に悪見としている。(5)この四点の中で真言が明記されていないのは、他の三者と比較するとまだそれほど真言への批判はされていなかった事もあるだろうが、「一切諸経皆是妄語」の中に含まれた形で訴えられた可能性もある。その事を考えれば、この時点で聖人の教学における「四箇格言」の四教に対する批判は当時の鎌倉の仏教界に広まっていた事が推察され、おそらく『行敏訴状御会通』(文永八年(一二七一)ご述作 身延曾存)において行敏ではなく良観上人並びに念阿弥陀仏、道阿弥陀仏となっているのは行敏は直接訴状を提出した人物に過ぎず、その裏にいるこれらの人々が訴状の実質的な提出者であると考えた為であると思われる。実際の訴状には先に挙げた『行敏御返事』の内容に加えて
  「本尊弥陀観音等の像を火に入れ水に流し」(6)
と記されていた事が『行敏訴状御会通』には載せられており、こうした教相から様々な流言が人々の間でうわさされていた事が伺える。
また評定所での聖人本人への尋問は『種種御振舞御書』(建治元年(一二七五)ご述作 身延曽存)に依ると
「故最明寺入道殿、極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し、建長寺、寿福寺、極楽寺、長楽寺、大仏寺等をやきはらへと申し、道隆上人、良観上人等を頸をはねよと申す。」(7)
との発言の有無を問われた事が確認される。これに対して聖人は
  「上件の事一言もたがはず申。但最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事はそらごとなり。此法門は最明寺殿・極楽寺殿御存生の時より申せし事なり。詮するところ、上件の事どもは此国ををもひて申事なれば、世を安穏にたもたんとをぼさば、彼法師ばらを召合てきこしめせ。」(8)
と反論した。即ち、流言の類として言ったのではなく諫言として国の為に主張した事として更に諸宗との対決まで求めた。この時その裁判を聴聞していた、後に日蓮聖人迫害の中心人物となる平左衛門尉頼綱は
  「太政の入道のくるひしように」(9)
と、怒り狂った事と同御書では記す。これは頼綱自身が太政入道平清盛の末裔(平資盛の子孫であり本来の伊勢平氏嫡流筋にあたると伝わる)である事になぞらえて書かれたのであろうか。ただし、『御傳記』に載せる所の頼綱へ提出した書状では頼綱を「天下之棟梁」と記しており、敬意を表わしている。しかし、文永八年九月十二日についに平頼綱自らが出向いて聖人を逮捕し、佐渡流罪が決定する。しかし頼綱はその流罪の道中、龍口で聖人を処刑しようとした。この時、『種種御振舞御書』では
「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物、まりのやうにて辰巳のかたより戍亥のかたへひかりわたる」(10)
という奇瑞により処刑は一時中止され、更に北条時宗による
  「今しばらくありてゆるさせ給べし。あやまちしては後悔あるべし」(11)
との仰せにより予定通りの佐渡流罪となった。ここには幕府内での勢力関係も深く関わっており、幕府内で公的ともいえる私刑を行える程の力をもった御内人(北条得宗家の家臣)平頼綱という存在、更に時宗により処刑中止の直接的な原因となった時宗の室である堀内殿とその養父の鎌倉幕府創立以来の名門安達泰盛(時宗に中止を進言した安達泰盛と聖人の信者である大学三郎は近しい間柄であった事が功を奏したと考えられる。粛清されたとは言え、比企氏も幕府創立以来の名門である。)この両者は後に対立して安達泰盛の誅殺(霜月騒動)に繋がる事を考慮するとこの時点から対立が生じていた可能性もあり、その対立がたまたま聖人を救った事も一つとして考えられる。また日蓮聖人としてはこの処刑の危難に遭うという体験から、凡夫日蓮から魂魄日蓮としての自覚を得る。後に『開目抄』(文永九年(一二七二)ご述作 身延山曽存)で
  「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて」(12)
と仰せになるほどの重要な転換、上行自覚を成す事となった。
 龍口での危機を乗り越えた明確に人はその後、相模の越智及び越後の寺泊等で一か月余りを過ごし佐渡に入る。この間、『五人土籠御書』(文永八年(一二七一)ご述作 京都妙覚寺に真蹟あり)や『佐渡御勘気鈔』(文永八年(一二七一)ご述作 真蹟無し)及び『寺泊御書』(文永八年(一二七一)ご述作 中山法華経寺に真蹟あり)等、弟子信徒に宛てた手紙を多く残されている。特にこの『寺泊御書』においては、聖人は
「諸宗の中に真言宗殊に僻案を至す」(13)
と示され、真言こそが謗法の最たるものであるとして挙げている。龍口以前のご遺文には真言に対しての批判や法華経との勝劣は示せども、念仏に比べれば比較的批判の数は少なかったがこれ以降、真言に対しての破折を繰り広げていく事になる。佐渡に入った聖人は塚原三昧堂に入られ、極寒の中の厳しい生活を送る事になる。
 文永九年(一二七二)正月、近隣から多くの諸宗の僧侶らがこの塚原に集まって聖人との問答を望んだ。これらは聖人を討とうとする算段を、本間重連のとりなしで中止して法論にて聖人を下さんとした者たちであった。しかし、佐渡やその周辺は都からも鎌倉からも離れた所であった為か、学に拙い僧侶たちばかりでその様子を『種々御振舞御書』で
  「仏法のおろかなるのみならず、或は自語相違し、或は経文をわすれて論と云ひ、釈をわすれて論と云ふ」
  「或は悪口し、或は口を閉ぢ、或は色を失ひ、或は念仏ひが事也けりと云ものもあり。或は当座に袈裟平念珠をすてて念仏申まじきよし誓状を立る者もあり。」(14)
と語られている。聖人に破られた諸宗の僧らはその場では本間重連の手前もあってか大人しく下がったようであるが、聖人としては命を狙われる予感があった為であろうか、同年二月に『開目抄』を執筆された。この『開目抄』には一つには万が一の遺言として書かれた事(15)、二つには門弟たちへの疑決(16)、そしておそらく三つ目には先の塚原問答での事があった為に世の盲人の眼を開く書を著されたとも推測できる。
変わって同じ年の夏ごろ、佐渡塚原の配所から移されて佐渡の豪族である一谷入道の所領へと移された。この地で聖人は『観心本尊抄副状』(文永十年(一二七三)ご述作 中山法華経寺に真蹟あり)にて
「当身の大事」(17)
とまで仰せになられた『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』(文永十年(一二七三)ご述作 中山法華経寺に真蹟あり)を執筆された。この『観心本尊抄』において日蓮聖人の教学的完成が成され、『開目抄』と合わせて天台教学からの進化が見られた。すなわち、本化別頭教学の樹立である。これをもって『観心本尊抄』には
  「像法中末観音薬王示現南岳天台等出現以迹門為面以本門為裏百界千如一念三千尽其義」(像法の中末(ちゆうまつ)に観音・薬王・南岳・天台等と示現し、出現して、迹門を以て面(おもて)となし、本門を以て裏となして、百界千如・一念三千その義を尽くせり)(18)
『観心本尊得意鈔』(真蹟無し)に
「叡山天台宗の過時の迹を破候也」(19)
と記される。この二大部以外にも『顕仏未来記』(文永十年(一二七三)ご述作 身延曽存)『祈祷抄』(文永九年(一二七二)ご述作 身延曽存)など日蓮教学上重要な法門が説かれ、後に『三沢鈔』(真蹟無し)において
  「又法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候し已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(20)
と説かれる程、日蓮聖人の教学の大成期に至った。その檀信徒たちへの教化や佐渡始顕曼荼羅などいわゆる曼荼羅御本尊を開顕し、信徒たちへの教導を示された。
 文永十一年(一二七四)二月十四日に鎌倉から赦免状が出された。後に六老僧の一人となる日朗上人が佐渡まで赦免状を届け、三月十三日ついに日蓮聖人は佐渡を出立。三月二十六日、鎌倉に入った。更にその二週間後、平頼綱から招集を受けて質疑応答した。この時の様子を『種種御振舞御書』には
  「同四月八日平左衛門尉に見参しぬ。さき(前)にはにるべくもなく威儀を和げてただ(正)しくする上、或入道は念仏をとふ、或俗は真言をとふ、或人は禅をとふ、平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ。一一に経文を引て申す。平左衛門尉は上の御使の様にて、大蒙古国はいつか渡り候べきと申。日蓮答云、今年は一定也。それにとつては日蓮已前より勘へ申をば御用ひなし。譬ば病の起を知ざらん人の病を治せば弥よ病は倍増すべし。真言師だにも調伏するならば、弥よ此国軍にまく(負)べし。穴賢穴賢、真言師逢じて当世の法師等をもて御祈り有べからず。各々は仏法をしらせ給ておわすにこそ申ともしらせ給はめ。」(21)
と記している。またここでは記されていないが、日興上人高弟日道上人著の『日興上人御伝草案』によると西御門の東郷入道の館跡に寺院を建立し帰依しようという時宗の意向を申し入れたという。(22)しかし、聖人はこの意向を拒絶し拠点へ引き返すと幕府はその二日後に阿弥陀堂別当の加賀法印定清に祈祷を依頼。定清はこれに応えて祈祷し、効験があって雨が降った。この時、鎌倉の人々は日蓮聖人をあざ笑い、弟子たちは動揺したが聖人は
  「かゝる僻事を申人の弟子阿弥陀堂の法印が日蓮にかつならば、龍王は法華経のかたきなり、梵釈四王にせめられなん。子細ぞあらんずらん」(23) 
と答えた所、雨は暴風雨となり家屋が倒壊したと『種種御振舞御書』には載せる。これらは後述するが後に執筆される『報恩抄』などの真言批判の一つ、不空三蔵らの祈祷に依り暴風が起こったとするものとも通じる。
この三度目の諫言が受け入れられないと見るや聖人は鎌倉を辞して信徒である波木井実長の招きに応じて身延山へ入山した。身延に入山した聖人であるが、当初は永住する気は無かったと見え、『富木殿御返事』(文永十一年(一二七四)ご述作 小松原鏡忍寺に真蹟あり)には
  「いまださだまらずといえども、たいしはこの山中心中に叶て候へば、しばらくは候はんずらむ」(24)
と記されており、一時的な住まいに過ぎないとお考えになられていたように思われる。また茂田井教亨氏は蒙古軍の襲来に供えた避難であったのでは無いかという見解も示されている。(25)
その山中の一所に草庵を構えた聖人は信者たちの供養を受けながら、
  「昼は終日に一乗妙典の御法を論談し、夜は竟夜要文誦持の声のみす」(26)
といった生活を送られていた事が『身延山御書』には記されている。この身延期においては日蓮聖人教学の晩成期であり、法門における完成が見られる。また他宗批判においても佐渡流罪以前の念仏を中心とした批判から東密や台密などの真言批判へと変化している。この事について聖人は『清澄寺大衆中』(建治二年(一二七六)ご述作 身延山曽存)に
  「真言宗は法華経を失宗也。是は大事なり。先序分に禅宗と念仏宗の僻見を責て見んと思ふ」(27)
また『破良寛等御書』(建治二年(一二七六)ご述作 真蹟無し)に
  「年卅二建長五年の春の比より念仏宗と禅宗等とをせめはじめて、後に真言宗等をせむるほどに、念仏者等始にはあなづる。」(28)
と語るなど、ある種の戦略的な構想があった事を明かしている。また私見ではあるが、これ以外にも元々は台密僧蓮長であった事から自らの出身を越えるために身延期に至って真言批判を強調するようになったとも思える。特に弘法大師は勿論の事、慈覚大師への批判は苛烈を増して
「されば慈覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給人なり。已今当の経文をやぶらせ給は、あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや。
弘法大師こそ第一の謗法の人とをもうに、これはそれにはにるべくもなき僻事なり。」(29)
と『報恩抄』(建治二年(一二七六)ご述作 池上本門寺ほか五か所に真蹟あり)に示される程である。これらの事は各章で述べていきたいが、ともかくとして他宗批判においても大きな転換があった事がわかる。
 それらのような法門上の遺文には先に挙げた『報恩抄』の他にも『撰時抄』(建治元年(一二七五)ご述作 玉澤妙法華寺ほか四か所に真蹟あり)や『諌暁八幡抄』(弘安三年(一二八〇)ご述作 身延曽存 富士大石寺にも真蹟あり)などといったものや、檀信徒や弟子たちへ送られた御書などにも『聖密房御書』(文永十一年(一二七四)ご述作 身延曽存)や『四信五品抄』(建治三年(一二七七)ご述作 中山法華経寺に真蹟あり)、『下山御消息』(建治三年(一二七七)ご述作 小湊誕生寺他二十九か所に真蹟あり)など法門上においても多く重要な事が示されている。またこの間、熱原法難など門下が弾圧を受けるなどの事件にも合っている。
 しかし、建治三年(一二七七)より体調が芳しくなく、信徒の四条金吾らの医療的指導により小康を保ちつつも弘安五年(一二八二)には身延を下山して常陸への湯治の旅に出かけた。九月より下山したものの、途中で体調は更に悪化して九月十八日には池上氏の館内にて休まれた。ここで最後に立正安国論の講義を行ったとされる。(30)
 十月八日、六人の後継者(六老僧)を定め、同月十三日に入滅。六十一歳の生涯を終えられた。

(1)『昭和定本日蓮聖人遺文』(以下、定本と略す)1552頁
(2)『日蓮大聖人御傳記』延宝九年 京都中村五兵衛開板 解読解説 小林正傳 一三頁
(3)『定本』一五五二頁
(4)『定本』一六六九頁 
(5)『定本』四九六頁
(6)『定本』四九八~四九九頁 原漢文書き下し
(7)『定本』九六二頁
(8)『定本』九六二頁
(9)『定本』九六二頁
(10)『定本』九六七頁
(11)『定本』九六八頁
(12)『定本』五九〇頁
(13)『定本』五一三頁 漢文書き下し
(14)『定本』九七三頁
(15)「此は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国当世をうつし給明鏡なり。かたみともみるべし。」『開 
目抄』 身延曽存 『定本』p590
(16)『観心本尊抄』を下総富木常忍に送ったのに対して開目抄は鎌倉の四条金吾に送られたと推察され 
るため。
(17)『定本』七二一頁
(18)『定本』七一九頁 原漢文書き下し
(19)『定本』一一一九頁
(20)『定本』一四四六頁
(21)『定本』九七九頁
(22)『日蓮とその弟子』 平成九年十一月 宮崎英修 一二四頁
(23)『定本』九八〇頁
(24)『定本』八〇九頁
(25)『日蓮の行法観』 昭和五十六年八月 茂田井教亨 二七五~二七六頁
(26)『定本』一九一五頁
(27)『定本』一一三三頁
(28)『定本』一二八四頁
(29)『定本』一二一六~一二一七頁
(30)『日蓮聖人の伝記と生涯』 昭和五十年七月 日蓮宗現代研究所編 八四頁



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