見出し画像

“空っぽ”の身体からはじまること


しんしんしが始まった頃、知念大地が、踊りの身体について藤原に説明する中で、藤原が知念に教わりながら、“空っぽ”の身体を実践しました。何度も実践を繰り返す中で、これは公にひらく形でシェアされた方がいい、と、しんしんしのアトリエ兼踊り場で『空っぽの教室』をひらくことになりました。

私が、大地さんとのやり取りの中で、“空っぽ”の身体を通して感じ、考えたことを体験談として記しておきます。

「“空っぽ”の身体からはじまること」

これまで、複数の友人が自ら命を絶った。
ある時期まで、わたしはその選択を否定できなかった。
「死にたい」と思う人に対して、その気持ちまで奪ってしまったら、どこにも行き場がなくなるじゃないか、と、思っていた。正直、自分も死を選ぶときは、意志を尊重して死なせてほしいと考えていた。

その考えが変化したのは、2020年、高校生と一緒に、演劇を創ったときだった。15歳から17歳の、子どもと大人の狭間で揺れる声をたくさん聞いた。表情を見た。「自分なんて生きている価値ないから」そう言って、希死念慮に悩む人は多かった。

彼らの、理不尽な大人への苛立ちや拠り所のなさを目の当たりにしたとき。自死は、絶対に否定しなくてはいけない、と思った。
個人が感じている苦しさは、個人の責任ではなく、彼らが参加するよりも前からある社会が、そう感じさせているだけだ。先にプログラムを作ったその社会の中で生きる大人たちが(これまでの時代の価値観も引き継いで)そう思わせている。彼らのせいではない。「生きる価値がない」と思わせる社会のはたらきを、絶対に批判しなければいけない、その実践をしなければいけない、と、腸が煮えくりかえった。
そして、彼らの表情が鏡となって、わたしも同じく、今、社会の網目の一部として生きていくのが苦しいのだと自覚した。

「存在しているだけでいい」今回、そういう作品を創っているから、と、当時、高校生に言った。

でも、どこかでうっすらと、お前は本当にそう言いきれるのか? という声もよぎった。
相手には「存在しているだけでいい」と言いながら、わたしは「存在しているだけ」でいいとは心の底からは思えていないんじゃないか。存在に付加された何かがないとだめだと、思っているんじゃないか。
当時はまだそこまで言語化はできていなかったけれど、本気で思っていながらも自分が体現しきれていないことに、腹落ちできていない感触がずっとあった。

2022年、春。演劇を続けていくこと、身体について考えていくことに行き詰まりを感じていたとき、豊岡に移住して、知念大地さんと一緒に踊りの活動『しんしんし』をはじめることになった。

行き詰まった自分、行き詰まった世界を編み直す方法について、ここ(身体から考える)からならば、歩み直せる、と直観した勢いで移住したけれど、引っ越しても、豊岡や関西圏に特に決まっている仕事はなかった。大地さんの踊りへの信頼は確かだけれど、いざ、一緒に踊りを公共へひらいていこう、と言っても、最初の頃、わたしは何をどう協働すればいいか、戸惑っていた。元々知念大地は大道芸から一人でやってきたパフォーマーだということもあるし、言葉も演出も、踊りには必要ないと思ったから。仕事もない、役割も分からない。何かを、と思って来たはいいものの、これまでやってきたことに頼る術がない事態に、結構、びびっていた。数年前、ようやく演劇の仕事で食べられるようになって、意気揚々と握りしめていた「演劇家」の旗を、手放さざるを得ないことが怖かったのだと思う。手放してしまったら「何者か」の規定がなくなって、ようやく踏み進められそうだと思った足場を失ってしまいそうな気がして。
そんなわたしの様子を見て、「佳奈さん、とにかく踊った方がいい」と、豊岡に来てすぐ、大地さんと、踊りの稽古がはじまった。
その中で試みることになったのが、“空っぽ”の身体だった。

“空っぽ”の身体の実践は、何か激しく動いたりするわけではない。
膝を抱えて、何も考えない、心の動きや自意識など、一切何も乗せない、身体を“空っぽ”の状態で座る。そして、それを、観ている人がいる。
こちらの身体の状態を見つめる大地さんから、鍼が打たれるように言葉がやってくる。その点を手掛かりに、空っぽへ、空っぽへと奮闘しながら、ただただ必死な時間が過ぎていく。
これが、初めての空っぽの実践だった。
空っぽって、どういうことや……? と、できているのか全く分からず混乱のうちに過ぎた記憶しかなかったけれど、動画で記録された自分の姿を確認すると、そこには、これまで見たことのない自分の表情が映っていた。
素直に「あ、きれいやな……」と思った。
それは、化粧をしたり、外の視線を意識した時の見栄や自意識でデコレーションされた美ではなく、ぽーんと、そこに座っているだけなのに、それがそのまま、美しく見えた。道路の端に咲いている小さな花を見て、ホッとする感覚に近かった。何も持たないことの奮闘がこのように映ることに、衝撃を受けた。

しんしんしを一緒にやっている日下部さんや、5月の「しんしんしをひらく」の会の時、千葉から来てくれた鈴木南音さんも、“空っぽ”の身体を実践する機会があり、それにも立ち合った。

誰かが“空っぽ”に真摯に取り組む姿を、見つめる時間。
二人とも、それぞれ見たことのない表情を見た。そして、やはり「美しいなあ………」と胸がじんわりして、なぜだか、泣きそうになった。その人と、本当に出会い直したような気がして。

“空っぽ”に取り組み始めたばかりのある日、大地さんから「空っぽをやるなら、日常に何もしない時間を作ること、おススメしますよ」と言われたことがある。わたしは反射的に「それ……こわいっすねえ」と言った。無理だろうとも思った。頭の中はずっと喋りつづけているし、寝ている最中、夢の中でも多弁だった。何をしても、頭の言葉が消えたことはなかった。
しかし、別に殺されるわけでも、怪我をするわけでもない。何もしない時間を少し創るだけのことが、どうしてそんなに怖いと思うのか。反射的に恐れてしまったことについて、よくよく思い返してギョッとした。

とはいえ、とにかくアドバイスを聞いたその日から、「何もしない」時間を作ってみることにした。最初は、どうにか3秒。瞑想でもなく、本当に何もしない、考えない。すぐに気が散って、終わってしまった。
一週間ほど経つと、7秒くらいは何もしない、が続くようになっていた。やってみると、怖いことは何もなかった。その後、少しずつ「何もしない」の時間は伸びていった。

“空っぽ”の身体を大地さんや日下部さんの前で何回か実践する機会を得て、このことについても考えた。
「何もしない」ということがつまり、「何かしていないと生きている資格がない」という強迫観念の裏返しで、「何かしていないといけないのに、何もしていないのは、生きている資格のない自分」という認識が根深くあったから、反射的に怖いと思ったんじゃないか。それは、豊岡に来たばかりの頃、「演劇家」という旗を握りしめていたことも、同じだと思った。

世の中は、できますか、できますか、とうるさい。
仕事してますか? 稼いでますか? 学んでますか? 成長してますか? あなたの強みはなんですか? 多様性、それぞれの権利を尊重しましょう。尊重したうえで、さて、あなたは何ができますか? 自信を持てていますか? どんなスキルを身につけますか? コミュニケーションスキルはありますか? 業界の中でどうやって秀でますか? 誰かに勝つにはどうしますか? 

わたしはこれまで、「いま、これで大丈夫だろうか」と、生じた不安に対して、何かを「する」、加算することで埋めて、打ち消そうとしてきたのだと思う。不安に抗うには、それしか方法を知らなかったから。

“空っぽ”を自他ともに見つめて、じんわり、いいなあ、と思う体験を経て、「存在する」ということは、それだけで十分で、尊い、それは価値観というよりも、事実だ、と思った。

まず、それぞれにこの尊い存在というものがあり、あとはめいめい必要なことをやればいい。不安のための加算ではなく、何もしなくても充分だけれども、加算したかったら加算したり、変容したかったら変容すればいい、と思うようになった。

まだ様々見つめている道の途中だけれど、今もう一度高校生に会ったら、「存在しているだけでいい」ということは、心の底から言えると思う。


自分にとって、“空っぽ”を見つめることは、生きていく上で立ち返る場所のようなものになりつつあるけれど、はじめに空っぽに取り組んだときは、少し、いや、結構、勇気がいる作業だった、と、思う。(一旦少し、と書いたのは、やることになった当時「もうこの先、どないしたらええねん!」という絶望状態から始まったので、勇気を出さざるをえなかったから。)

信じてきた荷物を降ろすことは怖いし、頼ってきた杖を離すことは怖い。
でも、この一歩目を必要としている人って、結構いるんじゃないかな、と思っている。

誰にも奪われない、わたしたちの奥っかわの姿を見つめる時間、お互いの存在に出会う場所からはじまること。

それぞれが、それぞれの歩みであるために、「空っぽの教室」が、必要な人に届くことを、願っています。












この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?