AIが仕事を奪う論 タブレットが何を変えるのか?

教師の最も重要な仕事は授業である。これは誰も異論がないだろう。目の前にいる子どもと向き合い子どもの持っている力を引き出す(あるいは力をつける)ことが教師の役目である。子どもをいかに伸ばしてやるか。できないことをできるようにしていくのが役割である。授業における知識の「伝達」が重要だと信じている教師は多い。確かに知識がないと入試問題は解けない。いかに知識を学習者にとってワクワク感を生じさせながら提供するかは教師の力量と言えるだろう。私は授業をよくメディアに喩える。年に1回の研究授業などの大きな舞台は「映画」、日常の授業は「テレビ」である。共通点は一方通行である。だが、その質が圧倒的に違う。日常で映画並みの準備は不可能である。

 では一人一人がタブレットを持つことで何が変わるのか。ネットフリックスやアマゾンプライムが見れる中で、わざわざ「テレビ」を見たいと思うだろうか。私はここ数年、テレビを日常的に見ることはしなくなった。全く困らない。お笑いかクイズか旅番組しかやっていない。今の自分の人生に何ももたらさない情報であるからだ。学習者が一堂に集まり、なぜ「テレビ」を見る必要があるのだろうか。講義授業をする教師はその意味が問われている。自分が「映画」を毎回の授業で提供できるなら、いいだろう。だが、毎回映画並みの授業を行うのは並大抵ではない。「アマプラ」や「ネトフリ」に勝てるコンテンツを提供できるだろうか。そもそもコンテンツで勝つ必要があるのだろうか。学習者に寄り添って一緒に学習していく伴走者としての役割が期待されている。そこで大切なのは「経験」である。学習者と一緒に困っていることを共有し解決に向かう。教えることより学ぶこと。学習者の悩みに寄り添った個別対話中心の授業を模索していきたい。もう新学期はすぐそこまできている。準備していきたい。

感情労働と身体性は機械には簡単にとって変わらない。人間にしかできない活動。教師にしかできない仕事に特化してテクノロジーを活用していきたい。

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