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映画『隣人のゆくえ あの夏の歌声 』レビュー

クリストファー・ドイルの撮影した映画でかつて映像酔いをしたことがあったが、この映画でも似たような感覚を覚え、慣れるまでは集中を要した。ただこの映画の映像のブレは、決して意図したスタイリッシュなものではなく、どちらかと言うと稚拙さを感じずにはいられない。しかし、物語が進むにつれて、逆にそれが癖になりハマってしまうという、不思議で力のある映画だった。

 物語は、山口県下関市にある梅光学院の話で、主人公カンナが、学校に忘れ物を取りに行くところから始まる。校内から聞こえる歌声に誘われてたどり着いた先は、ミュージカル部の部室だった。そこでカンナは、「夏休みの間、私たちのたった一人の観客になって」と部員たちから頼まれる。

「観客役」という役回りが、物語の核心に近づくにつれて意味深くなり効いてくる。演劇において、観客も観客という役の一員で共犯関係にあるのだと気付き、個人的には目から鱗がこぼれた。「歴史」という舞台も観客役がいなければ成立しないとも言えるのだろう。

 映画の中で「下関空襲」という言葉が突然出た瞬間から、物語の先は読めてしまったが、ディティールまでは想像できなかった。ミュージカル映画なので彼女たちが唄う歌の美しさと楚々としたダンスは魅力的であり、山口弁も耳に心地良く何より下関空襲に遭った学校という場の力を感じ、説得力があった。ミュージカル部の秘密が開かされるシークエンスは予想を超えた展開で、見せ場には鳥肌が立った。

 しかし、一番泣いてしまったのは、エンドロールであった。出演者、作曲、演奏、振付、撮影、録音、照明、メイクなどの名前のクレジットと一緒にまるでこの映画の種明かしのように、年齢が合わせて表記される。そのすべてが13歳から17歳なのであった。

あまり事前情報を持たずに観に行ったこともあり、この映画が、サラリーマンの柴口勲監督と参加を希望した中高生40名(中1〜高2)とのワークショップを通して、役割分担から物語の構成の全てを創り出していったことを知りびっくりした。

彼らは、自分たちの肉体や能力を使って、グループワークで物語を紡ぎ、「戦争」を捉えて、追体験していったことになる。その経験は当事者とは全く違うけれど、彼らにとってはリアルな人生の一部となっただろう。

 ちょうど映画を観る前日に、当時13歳だった戦争体験者のおばあちゃんから「戦時中は子どもは子どもでいられなかった」という話を聞いていたので、1945年の中高生と現代の中高生がクロスオーバーする感覚も起こり、涙が止まらなくなってしまった。

 どこか大林亘彦監督の昭和の映画作品に通じるところもあった。実は、大林監督もこの映画を観ており「まことに力強く、美しい映画を見せて戴きました。いま、とても幸福です」「奇蹟の映画だ」とコメントを寄せている。

私も本当に「奇蹟」だと思った。なので、また観たい、まわりのひとにも観て欲しいと思い、勝手に応援している。

また、いつの日か映画館での上映を!

2019年9月18日