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88(オチェンタ・イ・オチョ)

*BFC3幻の二回戦作品。

 数字が羽ばたいているんだ。その蝶を見たとき、はっきりとそう感じた。
 オチェンタ・イ・オチョ――スペイン語で数字の88。その数字の模様が羽に描かれている蝶、和名ではウラモジタテハと呼ばれる。南米の熱帯雨林や雲霧林に生息し、腐った果物の汁を餌とする。
 もちろん図鑑や標本では知っていたが、初めて生体を見たのはイグアスの滝近くだった。せわしなく飛び交い、地面にとまったかと思うと、すぐに飛び立つ。そうして数字が羽ばたいているとき、世界は計算しているのだと聞いた。「8」しかないのではと思ったが、この世界の切り口からは「8」しか見えないのだという。
 オダさんは、捕虫網で次々とその計算を中断させ、蝶を三角紙へと納めていった。エンカルナシオンに拠点を持つ昆虫のバイヤー兼採集者だ。よく通った昆虫標本店の店主から、「南米の昆虫にくわしい若者を探している人がいる、一年ほど働いてみないか」と紹介されたのが、オダさんだった。現地の昆虫に会えると思うと、うかうかと大学を一年休学することを決めて海を渡っていた。
 日本から米国を経由してサンパウロまで二十四時間、そこからプロペラ機でパラグアイの首都アスンシオンへ。さらに薪を焚いて走る蒸気機関車へと乗り込み、もう一日かけてたどり着いたのが、エンカルナシオンという町だった。季節と昼夜が二日で反転し、疲れているのに汽笛が耳について眠れなかった。
 地球儀をひっくり返して見るといい。エンカルナシオンはパラナ川に面し、対岸はアルゼンチン。けれども、日本人移民が最後に入植した地であることから、地球の裏側なのに店によっては日本語が通じた。それもあってオダさんはここを拠点にし、その手伝いをして蝶の採取や、標本の発送が仕事だった。残りの時間は好きにしてかまわないという。
 ただ町を歩こうにも、手書きの簡単な地図くらいしかなかった。町の中央を貫くハポン通り。町には信号がひとつもないのに、なぜか歩道橋はひとつあって、誰も渡らなかった。
 ハポン通りを下ると、パラナ川に出た。この辺りは露天が店を並べ、いつも陽気な音楽がラジカセから流れていた。大きな魚を裁きながら、おじさんが「ドラド、ドラド」とテンポよく売声をあげる。パラナ川で捕れる黄金の魚だ。そのとなりでは、露天の本屋が歩道一面に本を並べて、羽箒をかけていた。
 裏通りには日本からの輸入食料品店もあった。賞味期限が二年ほど前に切れたカップ麺やチューブのわさびが、けっこうな値段で売られていた。たまに行くバーのメニューにはカツ丼があり、なぜかパンがついてきた。
 公園には平日も休日も変わらずに人がいて、テレレというマテ茶を飲んでいた。先に小さな穴が開いて濾過できるボンビーリャというストローで飲む。そうして一日中、何もしないで過ごす。これがなかなか難しい。無為の時間を過ごそうと努めた。いや、ここでは努めてはダメなのだ。
 そして大事な仕事の一つに、週に一度日本へかける夜の電話があった。いまならメール一本ですむ話が、当時の連絡手段は電話か手紙。時差が十二時間あるので、夜九時に電話をかければ日本は朝九時。なんとか連絡がつく。しかし電話のある家はまれで、みんな電話局へ来て電話をかけていた。電話局は二十四時間営業で、夜中に来ても長蛇の列で待ち時間のおしゃべりを楽しんでいた。
 順番がくると、局内の狭い電話ボックスへと入る。受話器を取って待っているとオペレーターが出る。忘れないようにメモしてきた「キエロ・ヤマーラ・ハポン(日本に電話したい)」と言って、通じたようなら電話番号もなんとかスペイン語で伝える。呼出音の向こうに日本語が聞こえると、ほっとする。回線の影響か、声が届くのに二秒ほど遅れがある。そこで、注文のやりとりをする。値引きはしない。
 注文を受けると、オチェンタ・イ・オチョやブルーモルフォを丁寧に梱包し、今度は郵便局へ持ち込む。また発送手続きが面倒なのだが、対応してくれる局員とテレレを回し飲みしつつ半日かけて手続きを終え、パラナ川に沈む夕陽を眺めに行くこともある。少しは無為に過ごすことができるようになった。
 一年が経とうとする頃、オダさんからは仕事を任され、もっと居てもいいと誘われたが、休学を延長する決心がつかないまま、日本へ帰ってきてしまった。エンカルナシオンを発つ日、オダさんは「またおいでよ」と、記念に一羽のオチェンタ・イ・オチョをくれた。三角紙の中で、蝶の計算は止まっていた。

 あれから三十年、結局もう一度パラグアイの地を踏むことはなかった。ふとエンカルナシオンのことを思い出して、インターネットで検索をかけてみた。すると、そこには手書きの地図ではなく、現実の風景を真上から見下ろすことができた。黄金の魚ドラドが泳いでいたパラナ川下流にはダムができ、露店が並んでいたパラナ川沿いは、すっかりダム湖に沈んでしまっていた。
 蒸気機関車の線路が走っていた場所も水没したようだが、あの機関車が着いた駅はぎりぎり沈まずにあって、鉄道博物館になっていることも知った。ホームだった場所に、機関車が置かれている画像を見つけた。
 かつて、自分はこの場所に降り立ったのだ。汽笛が記憶の中で聞こえている。ただ、車輛の保存状態は悪く、機関車は赤く錆びて朽ちかけていた。これが、世界の計算結果だった。

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