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古書花

*BFC5幻の決勝戦作品。

 その花の色は清らかに白い。花びらはヒナゲシに似て紙のように薄く、印刷されたばかりの本の香りがする。やがて、時とともに花びらは次第に色褪せ、黄ばんでくる。縁は茶色みがかって、花の香りは一段と強くなる。ただ、その香りは咲いたばかりのときとは異なり、古本の香りである。この花が「古書花」と呼ばれる所以だ。
 バニリンやベンズアルデヒド、エチルベンゼンなど、有機化合物の仕業である。古書や図書館の香りが好きな人はいて、「イン・ザ・ライブラリー」という名の香水すらある。古い歴史を持つ図書館、静かな空間に本のページをめくる音だけが響き、古書から漂う香りを表現したというのが謳い文句だ。
 もちろん香りだけでなく、古書に心惹かれる人は多い。本に書かれている物語に人を惹きつける力があることは、言うまでもない。しかし、本を物体として感じたときには、本の表紙、装丁、見返しの飾り紙、紙の手触り、本の質量、そして紙をめくる音。そういうものが統合されて、一冊の本を感じている。
 さらに本が集って集合体となることで、本への想いはさらに深いものとなる。それが古書店や図書館の魅力だ。古本が立ち並ぶ書架、狭い通路に並ぶ本棚、床から積み上げられた古本の塔、そこに本がある安心感が生まれる。ひいては積読への免罪符、読んだ世界に包まれている心地よさ、十数年経ってから買っておいてよかったと手にする喜びへとつながる。
 古書花の香りを嗅ぐと、そんなことが次々と想起される。それゆえ、古書店にとって古書花はとても貴重なものであり、その花が持つ特別な力を求めて、密かに取引されていると聞く。
 たとえば、古書花を押し花にして本のページに挟んでおくと、新しい本も容易に古書へと変えることができる。装丁をわざと古本風にした新刊もあるようだけれど、この花があればそんな必要もない。
 しかし、きれいにできた古書花の押し花を、あまり長く本に挟んだままにしておくことには注意を要する。
 というのも、香りだけでなく、本の内容にすら影響を及ぼしかねないからだ。何年も古書花が挟まれた本の物語は、ときに微妙に変化していることがあり、それは異本として珍重される。
 本の初めの方に挟んでおけば冒頭が少し変わったような気がするし、終わりに挟めば結末すら微妙に異なる。
 では、しおりとして使った場合はどうだろう。読みはじめるたび、何か少し違う奇妙な感覚を体験できるのではと思うが、さすがにそんな短期間で物語は変化しないようだ。
 そんな古書花の栽培は、葉や花が日焼けを起こしやすいため、日陰での栽培が適している。しかし、あまりじめじめしたところでは、黴などに侵されやすい。寒冷紗を使って、乾いた日陰で雨よけ栽培するなど、工夫がなされている。もともとの原木は、古代アレクサンドリア図書館に植えられていたというが、乾燥した気候に適していたのだろう。
 肥料には書物の灰を施すのがよい。特に焚書灰は、最高級の肥料となる。また紙魚が好んでつくため、葉や花が食害されないよう、まめな手入れが必要である。
 そうして、丁寧に栽培された古書花になると、物語に影響を及ぼすどころか、まったくの白紙の本に挟んで時を経ることで、いつしか物語が書き記されているという。
 それゆえ、秘密の温室で古書花を育てている作家もいるらしい。それも、古風なオランジェリーのような温室が適している。また、穫れた物語は高値で取引されると、まことしやかに噂される。
 そうした古書花への欲望が大きくなっていくと、香りを嗅いだり、本に挟んでおくだけではとても満足できなくなる。次第に行為はエスカレートして、ついには古書花を自ら口にしてしまう事態に至る。
 そうなると、即身仏になるために、五穀断ち十穀断ちと穀物を食べない木喰行のように、やがて古本と古書花しか口にできなくなってしまう。その時には、古書花の蜜は甘露の味がするという。
 ひとり部屋に籠り、古書を読んでそれを口にする。物語は自分の身となり、すらすらと暗唱できるようになる。それと同時に、自分の身体からも古書の香りが漂いはじめ、愛書家はついには一冊の古本と化してしまう。
 それは夢なのか、誰か手に取ってページを開き、この本を読んでくれやしないかと願いつつ、時の過ぎるのを待つ一冊の古本。
 そうして生まれた古本の力は、まことに恐ろしい。手に取ってもらうどころか、鍵のかかる箱に入れて厳重に保管する必要がある。そばに置かれた本まで古本にしてしまうのだ。だが、その力には使い道がある。即席ではなく、本当の古本となるからだ。およそ十年の時を超えて、そばに置かれた本は過去へと飛ばされ、その時から既にそこにあって古本として熟成が進む。
 だから、たまに箱を開けると未来から来た知らない本が入っていることがある。それゆえ、絶対やってはいけないことが一つある。それは十年以内の新刊を箱に入れる行為だ。もしそれをすれば、未来の本が読めることになってしまい、歴史が変わるからだ。
 それで世界は一度滅んだ。

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