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「ことばと思考 シップ」08 まっすぐな正義でさみしい

 コロナ禍に話題になった「自粛警察」や「マスク警察」、「他県ナンバー狩り」。他人の振る舞いを監視し、ときに吊し上げたりするようなこれらの行為を「ゆがんだ正義」「正義の暴走」などと批判する声を、メディアやSNSでたびたび目にします。
 不正義でも悪でもない「ゆがんだ」という言い方に、「正義には違いない、だけどおかしい」という、複雑な心理を感じます。そもそも「ゆがんだ正義」があるのなら、ゆがんでいない「まっすぐな正義」もあるはず。でも、それって一体どんなものでしょうか。
 わかるようでわからない「正義」について、考えてみました。

思想としての正義
 正義(justice)は、「法にかなった、正当な、公正な」を意味するラテン語justusに由来する。古代以来、名だたる思想家たちによってさまざまに論じられてきた概念であり、その全体を俯瞰してまとめあげるのは少々荷が重い。ここでは下表の通り、主要なポイントのみを大ざっぱに抜き出すにとどめたい。 ※参考資料『岩波 哲学・思想事典』(岩波書店)

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 そのうえで、全体からあえて共通項を見出すとすれば、「平等」「公正」が志向されていること、だろうか。そして、そこからさらに強引に、正義の定義らしきものを見出すなら「多様な立場の人が属する共同体において、誰もができる限り平等かつ自由かつ幸福であるために必要な原理」といったところか。

肌感覚としての正義
 次に、日常における「肌感覚」のレベルで、正義の意味を考えてみたい。
 「正義の行い」とはどういうものかを考えたとき、まず浮かぶのは「人として正しいこと、公正であること」だ。加えて、「世のため人のため」「悪をくじき弱きを助ける」といった実力行使的な要素も必須である気がする。「正義漢」「正義の味方」のような言い方をするとき、特にその要素が強く表れる。
 この点が、意味的には近いものを持つ「善」や「道徳」と正義とを分かつ点かもしれない。あくまで個人の感想だが、「善人」は慈悲深く親切な人、「道徳人」は常識やモラルをわきまえた人、というイメージがある。それらは「正義漢」にも備わっているものだが、反対に「善人」や「道徳人」が、悪者をぶっ倒すイメージというのはない。
 また最近は、特定の価値観や文化、そこから湧き起こる感情などを「〇〇は正義」と言い切る表現もよく目にする。その代表格である「かわいいは正義」は、もとは漫画「苺ましまろ」(ばらスィー、KADOKAWA)に冠されたキャッチコピー「かわいいは、正義!」から広まったといわれる。他にも、例えば長野県の伊那市創造館が「蕎麦は正義」と題した企画展を開催したり(2020年2月19日~8月31日開催)、アウトドアメーカーのMILLETが商品の広告に「ドライは正義」というコピーを使用したりしている。
 「かわいい」のようなソフトで俗っぽい概念と、硬質な「正義」をあえて結びつけるというギャップが、この表現のキモだろう。加えて、そう言い切られちゃったらもう何も言い返せませんよ、というくらいの絶対性や強さを、正義に見出しているからこそ成り立つユーモアであるといえる。

 ここでようやく本題、冒頭に挙げた「ゆがんだ正義」の話に入る。まさにこの表現をタイトルに用いた2冊の本をもとに考えていきたい。

①片田珠美『「正義」がゆがめられる時代』(NHK出版新書)
 本書は、精神科医である著者が「行き過ぎた“正義”を振りかざして暴走」し、障害者や生活保護受給者、店員などの「弱い立場にある人を意図的に傷つける人々」の行為を分析するという内容だ。出版されたのはコロナ以前の2017年だが、まさに「自粛警察」のような行為を分析対象とする本といえそうだ。
 本書では、多数の「ゆがんだ正義」の実例を紹介しつつ、それらが横行する要因として格差の拡大、コスパ至上主義などがあると指摘している。その分析自体には納得できるものの、全体を通して「ゆがんだ正義を振りかざす人」という存在を「異なるもの」としてやや類型化し、それを外から見て論じているような距離感を感じた。
 例えば、学校法人森友学園の補助金不正受給問題で逮捕された、前理事長の籠池夫妻を取り上げた章では、この問題自体の真相究明は今後待たれると前置きしたうえで、次のように述べられている。

「一つだけたしかなのは、あくまでも自分たちは正義のために戦っているという籠池夫妻の思い込みが相当強いことだ」
「籠池氏は、運営する塚本幼稚園で、園児に教育勅語を暗唱させたり(略)する独特の『愛国教育』を行っていたようだ。こうした極端な方針も含め、自分のやっていることはすべて正しいと思い込んでいた可能性が高い」

 彼らの正義が「思い込み」にすぎない、ということが、まるで自明であるかのような書きぶりだ。確かに、籠池夫妻は2020年2月に有罪判決を受けているし、彼らを「ゆがんだ正義」と認定して「あちら側」に置いてしまえば話は簡単だ。しかし、それで相互理解が進むだろうか。決して揚げ足をとるわけでも、籠池夫妻を擁護するわけでもないが、彼らの正義を「思い込み」というとき、著者には「自分は正しい」という「思い込み」はないのだろうか。そのような葛藤が、本書からはあまり感じられなかった。

②大治朋子『歪んだ正義 「普通の人」がなぜ過激化するのか』(毎日新聞出版)
 コロナ真っ只中の2020年7月に出版された本書の著者は、毎日新聞のエルサレム特派員を経て2017年から2年間イスラエルの大学院に留学。過激なテロリズムに走る人間の心理を、現地取材を重ねながら研究し続けているという。
 本書には、過激化した若者らへのインタビューが多数掲載されているが、それらを読んで感じるのは、正義というのがいかに脆く、たやすく「ブレる」ものであるかということだ。パレスチナとイスラエルの対立でいえば、一方にとっては残虐な殺人・侵略行為でしかないものが、もう一方では正義として称賛され、さらにそこに欧米諸国の利害などが絡むことで、その線引きは一層複雑になる。
 そのような中にあって、著者は、過激化する人々と自らとを、どこまでも地続きに見ている。自分がいつ、テロリストと同じようになってもおかしくないという気づきを経て、なぜ過激化する人とそうでない人がいるのか、それを分かつものは何なのか、という疑問に向き合い続ける。『歪んだ正義』というタイトルながら、それを特定の人に当てはめて非難するようなまなざしは、そこにはない。
 
「ゆがんだ正義」の正体
 たとえ自分の目には異様に見える思想信条や振る舞いであっても、その環境で育った人や、それを支持する人にとって正義であるなら、そのことを一旦は受け入れるべきだ。反対に、自分にとっての正義も、他の人の目には「ゆがんで」映るかもしれない。そのことを、自らの正しさを主張するときは織り込んでおかなければならない。先の2冊は、それぞれ異なる方向からのアプローチで、そんなニュートラルな地点に立ち戻らせてくれた。
 さっき私は正義を「実力行使的」といった。しかし、ただまっすぐに行使するだけではだめで、その前後に相手からのフィードバックを受け付ける姿勢が必要なのだ。そうでなければ、正義はゆがむ。
 いや、ゆがむのは正義ではない。その「まっすぐさ」が、本来双方向であるはずのコミュニケーションをさみしい一方通行にし、両者の関係性をゆがませる。それが「ゆがんだ正義」の正体ではないか。「まっすぐ」ゆえに「ゆがむ」という矛盾が、人と人とが関わり合うことの難しさを、象徴しているかのようだ。

 さて、ここからは長い余談になるが、先の2冊のように正面から正義を論じてはいないものの、非常に示唆に富んでいる本をあと2冊、紹介したい。

 まずはアガサ・クリスティーの小説『春にして君を離れ』(早川書房)だ。ロンドンに暮らす主人公のジョーンは、弁護士のロドニーの妻として、また3人の子の母として、つねに家庭の幸福を第一に考え、夫や子どもが間違った方向に行かないよう、気を配って生きてきた。
 そんな彼女が、バグダッドへの一人旅から帰る途中、列車のトラブルで足止めをくい、トルコ近くの砂漠地帯の街に滞在せざるを得なくなる。物語は、その数日間の彼女の回想録を中心に進んでいくのだが、回想の中ではしばしば、夫や子どもたちと彼女との、激しい意見の対立が描かれる。そんなときも彼女は、自分の思い通りにならない相手に憤然とするばかりで、自らを省みようとはしない。どこまでも自負と自尊心に満ちた彼女の回想は、終始こんな調子である。

「わたしはこれまで、とても充実した、忙しい生活を送ってきた(略)そんなふうに均整のとれた、秩序だった生活をしてきた者が、実りのない無為に曝された場合、戸惑いを感ずるのは当然といえる。教養があるだけ、有能なだけ、適応しにくいのだ」
「もちろん、わたしは自分中心に物を考えるたちじゃないから。だから、自分のことなんて、あまり考えたことがないんだわ」
「わたしはこれまで(略)いつもひとのことばかり考えて暮らしてきた。自分のことなんて、ほとんど考えたことがないくらいだった。いつも子どもたちのことや、ロドニーのことばかり考えて暮らしてきたのだ」

 彼女のこうした態度に、つい先の片山の著書に登場する「ゆがんだ正義」の事例の数々を思い起こしてしまったが、物語後半、いよいよ砂漠の街を発つという直前になって、彼女にある変化が起きる。ここから先は、ぜひ本編で読んでいただきたい。

 最後は、この『春にして君を離れ』を読むきっかけとなった漫画「バーナード嬢曰く。」(施川ユウキ、一迅社)だ。これは、読書家を気取りたい「バーナード嬢」こと町田さわ子とその友人たちが、高校の図書室で本に関するよもやま話を繰り広げる漫画で、『春にして~』は第5巻収録の第82話で取り上げられている。
 この本を読んださわ子の友人・長谷川さんが、かつて小学校の教師に「お前のためだ」と言って苦手なことを押し付けられたエピソードを話し、「あの教師にこそ読ませてやりたい本です‼」と言う。
 そんな長谷川さんに、もう一人の友人である神林しおりが返す言葉に、心底ハッとさせられた。そこに込められた葛藤にこそ、間違いなく、関係性の「ゆがみ」を乗り越えるヒントがあるのだが、ネタバレになるのでここには書かない。気になる方は本編をどうぞ。(了)

■「字マンガ」その8(作:しば太)
1つの文字からインスピーレーションを得たサイレント漫画「字マンガ」です。今回の文字は「義」。

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義【ギ よい】人としての正しい行い。道理にしたがって行動すること。外から来た、固有ではないもの。

※「シップ」08 PDF版はこちらから

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