見出し画像

「ことばと思考 シップ」06 恥ずかしい音

 公衆トイレでの「音消し」という習慣に出会ったのは、20年以上前の高校生の頃。友人と一緒にトイレに行くと、みな個室に入ってすぐ水を流し、その後にもう一度流すので「なんで2回も流すんだろう」と不思議に思っていた。それが小用の音を消すためだと分かったときは「そんなことしなきゃいけないの?」と愕然としたが、その後は自分も同じようにやらないと恥ずかしい気がして、やるようになった。
 時は流れ、今やデパート、オフィスビル、そして駅のトイレにまでも、流水音を流す擬音装置がごく当たり前についている。水を流して「音消し」をする機会は格段に減ったので、節水面の効果は大きいだろうし、利用者サービスという面でも、設置する意義は確かにあるのだろう。
 でも。今も心の奥底では、高校生の頃と同じことを思っている。本当に、そんなことしなきゃいけないの?
 当たり前になってしまった今だからこそ、改めて問いたい。その音は、本当に恥ずかしい音ですか。



近代日本のトイレと「音消し」の歴史
 まずは日本のトイレの変遷を簡単にさらっておく。江戸時代までは「汲み取り式」が主流だったが、明治時代に木製の洋式(腰かけ)便器が登場し、大正時代には、陶器製の水洗洋式便器が、日本陶器合名会社によって開発される。これは現在、便器の販売で国内最大のシェアを占めるTOTO株式会社の前身である。
 昭和に入ると、戦後の高度経済成長、東京オリンピックなどを主な契機に、トイレ事情も急速に変わっていく。暖房便座、節水型と徐々に進化し、1980(昭和55)年には温水洗浄便座「ウォシュレット」が発売されて大ヒット。ウォシュレットは現在、日本の家庭の8割に普及しているという。またウォシュレットをはじめとする日本のトイレのすばらしさを「クールジャパン戦略」の一環として世界に発信しようとする動きもあり、2015(平成27)年には成田空港にTOTOのギャラリーがオープンしている。
 このTOTOが1988(昭和63)年に開発したのが、擬音装置の先駆けにしてもはや代名詞の「音姫」だ。同社webサイトによれば、「当時各地を悩ませた渇水」をきっかけに「高まる節水意識に応えて商品化」したという。
 その後は他のメーカーの参入も相次ぎ、高機能化・多様化が進んだ。今、商業施設やオフィスビルのトイレに行くと、音符マークのついた擬音ボタンとともに、温水洗浄便座の「おしりを洗う」「ビデ」「脱臭」「流す」など様々なボタンがパネルに並んでいる。音もかつては「ジャー!」という無骨な流水音だけだったのが、小川のせせらぎ(?)のように自然な感じにフェードイン・フェードアウトしたり、小鳥のさえずり(!)が混じっていたり、より快適さを演出するようなものが目立つ。


江戸時代にもあった「音消し」
 ところで私は、「音消し」というのは生活環境に対する衛生・美的志向が高まった現代社会ならではの現象だと思っていた。しかし色々と調べていく中で、実は江戸時代にも、まさに擬音装置の役割をなす「音消し壺」なるものがあったと知って驚いた。これは、底の部分に栓のついた壺で、水をためた状態で栓を抜くことで流水音を出す、という仕組みのものだ。もっとも、これを使っていたのは身分の高い女性に限られ、明治時代以降は姿を消していたようなので、単純に現代の「音消し」と同一視はできない。ましてや「日本人特有の恥じらい・奥ゆかしさ」のような方向に話を持っていくつもりもない。ただ、この「排泄音=恥」の意識が、思っていた以上に根深いのかもしれない、と考えさせられる事実ではあった。

「音消し」はマナー?
 もう一つ、意外な発見があった。
 私は、「音消し」を単純に「自分が恥ずかしいからやる」行為と捉えていた。しかし、それだけではなく「他人を不快にさせないためにやる」行為、つまりマナーの一環だとする考え方もあることを知った。
 株式会社マイナビが運営する情報サイト「マイナビウーマン」が2016年12月に22~34歳の働く女性を対象に行ったwebアンケート(有効回答数106件)の結果を見ると、擬音装置があるのに使わずに用を足す人に対し「音が丸聞こえで恥ずかしくないのかと思う」「空気が読めない、気遣いのない人だと思う」「周りも気にしてないしマナーが悪い人が多い」といった手厳しい意見が挙がっている。
 もちろん「別に何とも思わない。(略)むしろ強制するのはどうかと思う」「私も使わないけど気にすることはないと思います」といった意見もある。それぞれの回答の割合は示されていないが、「自分も使わない」という人は少数派であったらしい。

 この「音消し」をマナーとする考え方、個人的には意外だが、実際のところ、みんなはどう思っているのだろう。気になったので、突発的にweb上でアンケートを実施してみたところ、26名の方から回答を得た(ありがとうございます)。その結果がこちら。

画像2

 回答者の約8割が女性で、女性は全ての方が「音消し」の経験があると答えた。問6で「音消し」に対する考えとして最も近いものを選んでもらったところ、「やるかやらないかは個人の自由であり、マナーとして強要されることではない」が約7割で最多となり、「マナーとして、やるべきことである」はゼロであった。
 ただ、「音消し」に対する考えを自由に記述してもらったところ、「他人の用足し音を聞きたいかと言われるとやはり聞かなくて良いなら聞きたくないかも」「『聞かれる』のは恥ずかしいですが、『聞かされる』のはなぜかもっと恥ずかしく、『なぜ音消ししてくれないのかな』と困惑します」といった意見もあった。「音消し」は、マナーの一歩手前の、少々懐かしい表現だが「エチケット」とでもいうべき立ち位置にいるのかもしれない。

「恥ずかしさ」のすり込み
 そもそも、私はなぜこんなに「音消し」にこだわっているのか。先に書いた通り、高校生の頃に感じた疑問が今も消えていないばかりか、妙にギスギスした今の社会の雰囲気と「音消し」の習慣が、どこかでリンクしているように思えてならないからだ。
 例えば、最近よく耳にする「学校でトイレに行けない子どもが増えている」という話。小林製薬が2010年から実施している「小学生のトイレ実態調査」によれば、小学生が学校のトイレで「大」をすることに抵抗を感じる理由として、ずっと上位を占めているのが「恥ずかしい」「落ち着かない」「からかわれそう」といった心理的なものだ。「和式が苦手」「汚い」「休み時間が短い」といった環境面の理由は、それらの次に来る。
 擬音装置が当たり前に設置されている環境が、いわば「すり込み」のように、子どもたちに排泄を「恥ずかしい」ものと感じさせていると言ったら、言い過ぎだろうか。そして、その環境を彼らに与え、自らも享受することによって、無言のうちにそれを肯定しているのは、他ならぬ私たちである。

とりあえず、なんとなく
 もう一つ、これは「音消し」に限ったことではないが、今の社会を支配している「文句を言われたら嫌だから、とりあえず蓋をしておく」「みんなやってるから、なんとなくやる」という文化への違和感もある。蓋をした時点で「恥ずべきこと」「やましいこと」の烙印を押したも同然だが、そもそも排泄音は本当に恥ずべきものなのか。それを隠そうとするのは、本当に私たちの、特に子どもたちの心身にとって健全なことなのか。水は節約できても、電気の消費量は増えるのではないか。そういう根本的な問いもなく「とりあえず、あったほうがいいから」くらいの軽さで、擬音装置が標準装備されていく。そんな風に思えてならない。

最後に ―地味すぎる試み
 上記アンケートの問6に私自身が答えるならば「やるかやらないかは個人の自由であり、マナーとして強要されることではない」を選ぶ。ただ「やめるべき」と言いたい気持ちも若干あり、それらをひっくるめてフリーワードでまとめると「『やらない』という選択肢がもっと認知され、選ばれてほしい」といったところだ。それはトイレの問題に留まらず、社会の風通しをよくすることにもつながる気がする。
 そこで、数か月前から地味に「音消ししない運動」を始めている。擬音装置があってもなくても、どうしても気になる場合を除いては、音消しをしない。それだけだ。
 私一人で「運動」している限り、何かが大きく変わることはないだろう。けれどもし、私と同じように「音消し」に疑問や違和感を持っている人たちが、この「運動」に加わったら。そしてそれが大きな「うねり」となって、5年後、10年後の「音消し」事情に、もっと言えば社会全体に、何かの変化を生み出すとしたら。

 静かなトイレの中で、そんなことを考えている。        (了)

■連載「字マンガ」その6(作:しば太)

画像1

1つの文字からインスピレーションを得たサイレント漫画「字マンガ」です。今回の文字は「重」。

重【ジュウ・チョウ おもい・かさなる】「突き通す」を意味する「東」の下に「土」を置き、重さを表わす。重んじる(大切に扱う)、積み重ねる、の意も。

※「シップ」06 PDF版はこちらから

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?