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「ことばと思考 シップ」02 「祭り」と「フェス」 ―似て非なる祝祭のことば―

 身の周りでよく目にする「祭り」「フェス」という言葉。私たちは、一見同じであるようなこの二つの言葉を、それぞれ特有の意味やイメージのもと、微妙なニュアンスで使い分けている気がします。
 そこで今回は、似て非なる「祭り」と「フェス」について、現代的な意味や使われ方、託されたイメージとその背景について、考えてみたいと思います。

「祭り」のそもそもの形
 国語辞典で「祭」の字のつく言葉を探してみると、御祭、祭祀、祭事、祭典、祭礼、祝祭、例祭など様々ある。これらは、意味には若干の違いはあるものの、「神をまつるための儀式・行事」を指すという点では、ほぼ共通している。
 民俗学者・柳田國男の『日本の祭』(角川文庫)によれば、そもそも日本の農村や漁村における「祭り」とは「籠る」ことだったという。物忌みをして穢れを祓い、日常から隔絶された場に籠って神の降臨を待ち、酒食をもってもてなし、祈りや感謝を捧げることが「祭り」の本体だったのである。私たちが「祭り」としてイメージする「お神輿」などは、本来、神が訪れた後の二次的な部分にすぎなかったが、見物客の増加などに伴い、次第にその二次的な部分が「祭り」として表面化していった。

 次に、私たちが普段接している現代の「祭り」の例を、分類とともにいくつか挙げてみたい。
 ①節句や信仰に由来する年中行事(雛祭り、花祭り、新嘗祭など)
 ②自治体や企業が主催する催事・イベント(地域の夏祭り、「さっぽろ雪まつり」のような全国規模の祭りなど)
 ③学校行事(文化祭、体育祭など)
 また、これらのように実体のある催しではない「祭り」もある。それは、言い換えればキャンペーンやフェア、セールにあたるもので、代表的なのは山崎製パン㈱の「ヤマザキ春のパンまつり」だろう。商品についているシールを集めて応募すると白い皿がもらえるというもので、「1981年からスタートし、毎年1回実施している長寿キャンペーン」だという(同社ウェブサイトより)。スーパーのチラシで見る「鮮魚まつり」などもこの類だ。さらに近年では、インターネットの掲示板などで特定の話題で盛り上がる、いわゆる「炎上」も「祭り」と呼ばれる。
 このように、現代の「祭り」は「籠る」「祈る」といった信仰的要素よりも、商業的・娯楽的な「イベント」としての要素が強い。永井純一『ロックフェスの社会学 個人化社会における祝祭をめぐって』(ミネルヴァ書房)によれば、特に1970年の大阪万博以降、「イベント」の産業化が進み、伝統にとらわれない新しい「祭り」が各地で次々と開催されるようになったという。このことが、「祭り」を人々の生活や属する共同体との結びつきのない、単純な娯楽としての「イベント」に近づけたのではないか。

「フェス」の躍進
 ところで、「祭り」に似た言葉として、ここ何年かで急速に存在感を増してきているのが「フェス」だ。「フェス」は祝祭、催し、饗宴などの意味を持つ英語のフェスティバル(festival)の略である。同じく「祭り」を指す言葉であるカーニバル(carnival)が明確に「謝肉祭」の意味を持つのに対し、フェスティバルは祝祭を意味するラテン語festaに由来し、より広く「祭り・催し」を表すようだ。

 「フェス」はもともと、音楽を野外で演奏するロックフェスティバルを指す言葉で、『現代用語の基礎知識 カタカナ外来語略語辞典 第5版』(自由国民社)には「祭り。特に音楽系イベント(複数の出演者によるコンサート開催など)を指す」とある。日本では、1997年の「フジロックフェスティバル」以降、各地で様々なロックフェスが行われるようになり、音楽イベントの一形態としての定着とともに「野外フェス」「夏フェス」といった呼称も一般的になった。なお、『広辞苑』などの国語辞典には「フェスティバル」や「フェスタ」(伊 festa)は載っていても「フェス」はないものが多い。  
 現在、「フェス」という言葉はもはや音楽から切り離され、「祭り」と同じく、「パンのフェス」「本のフェス」のようなイベントから「家電フェス」のような小売店のセールまで、催しとしての実体の有無を問わず、様々な使われ方をしている。また「祈り」などの要素が薄く、「楽しむ」ことに主眼が置かれている点も、「祭り」と近い。
 そんな中、特に若い世代をターゲットとするイベントなどで「祭り」以上に「フェス」が多く用いられているのは、言葉としての流行というだけでなく、イベントとしての「フェス」の特性が、今の時代の「気分」に合っているせいでもあるのではないか。 

「フェス」の特性①ファッション性
 ロックフェスというイベントの特性について、前出の永井は「ファッションやライフスタイル」との結びつきの強さを指摘する。
 これは、主催者側がそのようなコンセプトで「フェス」を企画しているというだけでなく、参加者側が、誰と行くか、何を着るか、何を食べるか、どう過ごすか、といった「フェス」でのあらゆる選択を、自身のアイデンティティやイメージを表象するものとして、いわば「身にまとって」いるということでもあるだろう。加えて、何にも縛られず、好きなものだけをカスタマイズして楽しめるという心地良い「軽さ」もある。それらが、「フェス」という抜け感のある言葉の響きと相まって、人々の感性や「気分」にフィットしているような印象を受ける。
 もちろん「祭り」でも、それに参加することをアイデンティティの確認につなげる、ということはあるだろう。しかしそこには、地縁、家族、伝統、義務といった「重さ」がつきまとう。特にそれが原初的な形のものであるほど「重さ」と縛りは強まり、ファッション性や自由さとは縁遠くなる。

「フェス」の特性②雑食性 
 フジロック創始者の一人である㈱スマッシュの日高正博は、イギリスのロックフェスで見た、演奏だけでなく料理や展示など様々なブースが出る「〝なんでもあり〟のお祭り」がフジロックの原点であり、会場内に点在するいくつものステージを「どんな〝線〟でつなぐか」を重視していると語る(京都造形芸術大学編『空間プロデュースの視点』角川書店)。音楽はメインではあっても唯一の目的ではなく、その周縁の雑多としたものを通過する過程こそが「フェス」の醍醐味ということだ。
 実際、永井が聞き取り調査を行ったロックフェス参加者の多くが、演奏を聴くこと以上に「フェス」の空間そのものを楽しんでいる、というコメントを残している。これは、神への祈りや感謝という明確な目的を持った原初の「祭り」とは対照的である。
 「フェス」のこうした〝なんでもあり〟性は、社会学者のジグムント・バウマンが指摘する「今日の文化的エリート」の「雑食性」の原則と一致する。

 今日、文化的エリートの一員である証拠は最大限寛容で最小限気難しいことである。(略)今日の文化的なエリート主義の原則は雑食性、言い換えると、あらゆる文化的な環境に家庭的なくつろぎを覚えながら、いかなる家庭も家庭とはみなさないことである。(『リキッド化する世界の文化論』 青土社)

 現代においては、特定の文化のみを優位に立たせ、それ以外を「俗」と切り捨てるような態度は「上から目線」だと嫌われる。そうではなく、世間的な評価などはひとまず措いて、どんな文化もあくまでフラットだという前提のもと、好き嫌いなく「雑食」することが、文化的にスマートな態度なのである。実際、ロックフェスにおいても、例えば「ファンではないアーティストのステージも全力で盛り上げよう」といった呼びかけが主催者側からなされるなど、「なんでも」楽しむ姿勢が参加者側に求められている。

 こうした文化的な「雑食性」は、近年、国の政策から企業の理念まで、あらゆるところで掲げられる「多様性(ダイバーシティ)」という概念との連関を思わせる。しかしバウマンは、「多文化主義」や「文化的多様性」といった言葉とその概念を支持することで、「差異に対する新たな無関心」が生まれる危険性も指摘している。

 …非常に一般の支持を得にくい現象である社会的不平等が、「文化的多様性」を装うことで、広く尊重し、慎重に育成するに値する現象に変化している。こうした言葉の操作によって、貧困の持つ道徳的な醜悪さも、魔法の杖に触れたかのように、魅力的な文化的多様性へと早変わりする。(同)

 私たちは、誰かの生き方にしろ音楽の好みにしろ、それがあまり共感できない種類のものであっても「人それぞれだからいいんじゃないですか」などと言ってしまいがちである。しかしこれを言うとき、本当にそう思っていることは稀ではないか。本当は到底受け容れられないが、相手を否定すると自分が狭量な人間になってしまうし、そんなリスクを負ってまでその人と深く関わりたくない、そんなエネルギーはない、面倒くさい…これも「多様性」への理解に見せかけた「無関心」の一つとはいえないか。それによって見えづらくなる、あるいは、私たちが意図的に見えなくしている「差異」が、たくさんあるはずだ。
 もちろん、「フェス」の持つ雑食性が即座にこうした「無関心」に結びつくと言いたいわけではない。しかし、華々しい「多様性」のスローガンの下で、表面化しない貧困や格差、「生きづらさ」が広がっているような現状を思うと、「フェス」という言葉と「フェス」的な雑食性への志向が、バウマンのいう「魔法の杖」と、決して無関係ではないような気がしてくる。

◆ 

 永井が述べる通り、現代では「あらゆることや出来事、文化は祝祭化」され、それらはもはや「非日常」ではなく「日常」の範疇にある。
 そんな中、「祭り」は神秘性や伝統性、親しみやすさやレトロ感、さらに「奇祭」にみられるような強烈なローカル性を表すものとして、また「フェス」はファッション性や雑食性、軽さのほか「フェス的なもの」を表す包括的な概念として、今後も似て非なる立ち位置で共存し、私たちの「日常」を彩っていくだろう。

 さて、2020年には、まさに巨大な祝祭が東京にやってくる。そのとき、私たちは本当の意味での混淆と「多様性」を受け容れる覚悟で臨むのだろうか。それとも、あくまで自らの安全と自由を担保した上で、否定も肯定もせず、「スマート」に楽しむのだろうか。           (了)

■連載「字マンガ」その2(作:しば太)

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1つの文字からインスピレーションを得たサイレント漫画「字マンガ」です。今回の文字は「幽」。

幽【ユウ】山中がほの暗く、かすかにしか見えないさま。奥深い、人里はなれている、人知れぬ、などの意味も。

※「シップ」02 PDF版はこちらから

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