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「ことばと思考 シップ」01 1971年、ふたつの〈孤独〉―村上春樹の「僕」、須賀敦子の「私たち」―

 孤独死、おひとりさま、ぼっち・・・世の中には、〈孤独〉をめぐるキーワードが溢れ、〈孤独〉を否定的に捉えるもの、あるいは称賛するものなど多種多様です。そんな中で、私たちは自らの〈孤独〉と、どのように向き合っていけばいいのでしょうか。 
 今回は、偶然にも1971年という共通項を持つ二つの文学作品をご紹介します。そこに描かれた〈孤独〉のあり方が、私たちそれぞれの〈孤独〉について考える、ひとつの足がかりになればと思います。

村上春樹「スパゲティーの年に」(『カンガルー日和』講談社文庫、1986年)
           
 主人公の「僕」にとって、1971年は「スパゲティーの年」だった。来る日も来る日も、「まるで何かへの復讐のよう」に、一人でスパゲティーを茹で、食べつづけた。
 そんなある日、電話がかかってくる。電話の主は彼のかつての知人の恋人で、その知人の居場所を教えてほしい、という。彼は知人の居場所を知っているが、教えることはできない。そこで彼は頭の中で「空想のスパゲティー」を茹で始め、「悪いけど」「今スパゲティーを茹でてるところ」だから手が離せない、と言って、電話を切ってしまう。 
 「僕」は後になって、彼女に何もかも教えてやるべきだったのかもしれない、と悔やむ。そして「永遠に茹でられることなく終わった」空想のスパゲティーの存在を悼み、次の言葉で物語の幕を下ろす。

 デュラム・セモリナ。
 イタリアの平野に育った黄金色の麦。
 一九七一年に自分たちが輸出していたものが「孤独」だったと知ったら、イタリア人たちはおそらく仰天したことだろう。

 「僕」にとっての〈孤独〉とは何だったのか。
 それは単に、一人でスパゲティーを食べつづけた、ということではないだろう。彼が、1971年以前から「復讐」したいほどの「何か」に打ちのめされていたことは想像できる。しかし、その「何か」について語られていないのは、おそらくそれが彼にとって、劇的で圧倒的な力を持つものではなく、むしろほとんど実体のない、つまりは語るほどでもないような種類のものだったためではないか。
 実体のないものには抵抗のしようもない。そこで彼にできることといったら、スパゲティーを茹でて食べる、というような語るほどでもない日々を、自ら積み重ねることしかなかった。つまり「スパゲティーの年」は、「何か」から逃れるために彼が編み出した、大がかりな、しかしごく個人的な虚構であり、そのための作業と、根源たる「何か」の全てを指して、彼は〈孤独〉と呼んだのである。

 ところで、1971年というのは一般的にはどんな年だったのか。 
 沖縄返還協定調印式、ドルショック、イタイイタイ病訴訟で住民側全面勝訴、新宿クリスマスツリー爆弾爆発、マクドナルド日本第一号店開店、日清カップヌードル発売。年表にはそのような出来事が並ぶ。  
 暮らしが豊かになる一方で、公害問題など高度経済成長による「ひずみ」が次々と露呈し、学生運動の熱も冷め、「シラケ」たムードが漂い始めていた時代。それが一般的にいわれる「1971年」だ。
 もちろん、時代というのはそんな風に端的にまとめられるものではない。しかし「僕」の態度には、そうした時代の気配と、それに対する抵抗とが、ねじくれながら共存しているようにも見える。
 そしてこの年、「僕」が食べつづけたスパゲティーの原産地・イタリアでも、もうひとつの〈孤独〉が、時代の波と押し合うように、生まれようとしていた。

須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』(文春文庫、1992年)

 生前の著書はわずか5作ながら、今も多くのファンを持つ須賀敦子(1929~1998)。2作目の著書にあたるこの本は、若き日の須賀がイタリア・ミラノで活動をともにした、コルシア・デイ・セルヴィ書店のエピソードを中心に綴られている。 
 
 コルシア書店は、一般的な意味での「書店」とは少し違う。
 戦後間もない1946年、レジスタンス活動家でもあった二人の神父によって作られたこの書店は「かたくなに精神主義にとじこもろうとしたカトリック教会を、もういちど現代社会、あるいは現世にくみいれようとする」カトリック左派の思想を基盤とし、宗教活動家や作家、学生らが「ごったまぜ」に議論し交流する、いわゆるサロンの役割を果たしていた。須賀がそのメンバーに加わったのは31歳のとき、イタリアに渡って2年目の1960年だった。
 須賀はコルシア書店で精力的に活動する。谷崎潤一郎、川端康成などの日本文学をイタリア語に翻訳し、またキリスト教関連の論考などを日本語で記した個人誌「どんぐりのたわごと」も発行している。さらに、書店の中心メンバーであったペッピーノ(ジュゼッペ)・リッカ氏と結婚するが、夫の突然の死により、結婚生活はわずか5年で終わりを迎える。
 須賀はその後も書店に関わり続けるが、1971年、41歳のときにイタリアを去り、日本に帰国する。その頃には須賀だけでなく、他の主要なメンバーもほぼ書店の活動から離れ、書店自体のスタンスも、交流の場というより過激な闘争の場へと、変わり始めていた。
 コルシア書店において須賀と「仲間たち」が追い求めていたものは、須賀の言葉によれば「キリスト教を基盤とした、しかも従来の修道院ではない生活共同体」であった。18歳で洗礼を受けた須賀は、そのような共同体が「はたして可能なのか」ということを、イタリアに渡る以前から考え続けていたのである。
 その問いへの答えを、須賀は本書の中で明らかにしていない。須賀の帰国後、書店は教会当局からの圧力により移転と改名を強いられる。これはコルシア書店という共同体の事実上の崩壊といえるが、須賀はそのような審判を下してもいない。代わりに「ダヴィデに―あとがきにかえて」と題した本書の最終章で、ひとつの「結論」のようなものを示している。

 コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、(略)それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
 若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。

 書店を離れた途端、須賀の中にいきなり「究極においては生きなければならない孤独」が確立したわけではないだろう。物理的な距離に加え、「徐々に失う」ための時間も必要だった。その間に、須賀の関心は、理想の共同体の追求から、その原子たる一人ひとりの「生」へと移っていったのではないか。荒野を森に変えるには、ただ寄り集まるだけではだめで、まずはそれぞれの樹が、自分の力でまっすぐに立たねばならない、と。須賀にとっての1971年は、ひとつの終わりであると同時に、彼女と「仲間たち」の、「人生」の始まりでもあったのだ。

 ひたすら内面へと向かった村上の「僕」と、連帯を目指した須賀の「私たち」。一見対照的な両者だが、どちらも「個」を主体とした、アクチュアルな〈孤独〉のあり方を示しているといえる。「僕」は虚構によって、須賀は人生そのものによって、外から押しつけられる〈孤独〉を乗り越え、自らの底にある〈孤独〉に迫ろうとしたのだ。

 現代の〈孤独〉は、自己啓発から社会問題まで、じつに様々な文脈で語られる。しかし、そのことが〈孤独〉をいわば「社会共通認識」へと引き上げ、個人から引き離してしまっている面もあるだろう。
 〈孤独〉のことなど考えなくても生きてはいける。しかし本当に苦しい時、自分を支えるものは自分の中の〈孤独〉しかないのかもしれない。村上と須賀が描いた〈孤独〉は、そんな示唆を与えてくれる。     (了)

連載「字マンガ」その1(作:しば太)

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1つの文字からインスピレーションを得たサイレント漫画「字マンガ」です。今回の文字は「雨」。 

雨【ウ、あめ・あま】❶空から降る雨 ❷友人(杜甫の文に由来)の意味を持ちます。天と雲、水を象った文字ですが、部屋の中から窓の外の雨を眺めているようす…にも見えます。

※「シップ」01 PDF版はこちらから


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