取り戻すのではなく、取りに行くために
人生をある年限ごとに区切って考えてみると言うやり方がある。
私の場合、1989年、1999年、2009年が転機だったように思う。
1989年に転職。新しい仕事(マーケティングと編集)を始めた。
1999年はノストラダムスの大予言に怯えながら、所属会社が1998年に合併して大きくなって、その中で制作部長になって、2000年に向けて新しい仕事(CD-ROM制作)に忙殺され、眠れなくなったりした。
2009年は、役員に昇格していた会社を2007年一杯で親会社の指示で廃業し、2008年にフリーランスになったところ、知人の紹介で全く新しい仕事(研究マネージャー)を始めることになった。
と考えると、今年2019年も転機になるはずなのだが、今のところ、そうでもない。
まあ、2017年に前職を辞めて、2018年に今の会社にお世話になったので、変わったといえば変わっている。前倒しだったのか?
そう言いつつも、前職を辞めた理由だった体調不良が少しずつ回復してみると、10年近く離れていた編集の仕事がやりたいなとムズムズしてきた。なので少し動いても見たけど、なかなか縁がなかった。私の履歴書では採用する側を動かせないらしい。
そんな時、出版社であるディスカバー21が編集教室を開催すると知った。
これは、チャンスかもしれないと思った。
これまでの経験にすがって取り戻しに行くのではなく、新たに自分の中で積み重ねたものを持って、この先を取りに行くためのチャンスになるかもしれない。
振り返ってみると、ノストラダムスの大予言が子ども心に深く沁みていた私は、どこかで21世紀は自分ごとでは無かった。だから21世紀になってからも自分に起きた出来事が、どこかで絵空事というか、うわの空な所があったように思う。
今の若い人に説明しても理解してもらえないと思うけど、本当に、五島勉さんの本を読んだ時には(書店で立ち読みした)小学生だった私は、戦慄した。そして、厭世的な子供だった私にはしっくりきた。
どうせ40歳になる前に死んじゃうんだ。
それが沁みついて、何か未来を見据えた行動に積極的になれないままいた。
今は、妻の手前もあるし、親もまだ健在なので、積極的に死ぬ気は無いが、老醜を晒すくらいならば老後になる前に消えてしまいたいと思っていた。
だから、60歳から先の人生など考えてもいなかった。
でも、そうもいかない事態になってきた。目の前だし。死にそうも無いし。
失われた50代を取り戻すのか、あの輝いていた40代に帰るのか、そういう選択肢の中で、どう60代を迎えるのか。
取り戻すのではなく、取り返すのでもなく、新たに取りに行く方が良いのでは無いか。
そう思った。
60代の自分の人生を取りに行くために、自分がすべきことは、60代でも他の世代に負けないスキルを確立することで、それは多分、編集力なのではないのか、と。
編集力は、徹夜での校正とか考え続ける集中力とか若さが必要な時期もあるが、成熟とか、経験とか、年齢がいってからの方が増す力を必要とする余地もある。何より、人生のあらゆる側面で有効に働く力になりうると思う。
昔、取材でお目にかかった、この先生の本が役に立つ歳になったということだなあ。
そして、さらに「結晶性知能」の論考は進んでいる。
知的能力の階層性を想定し、頭の回転の速さや思考の柔軟さに対応する流動性知能と言葉の理解・運用能力や一般常識に代表される結晶性知能に分け、高齢期の流動性知能の低下は結晶性知能によって補うことが出来る可能性を指摘している。
60代になっても生きていくために必要なスキルとして、編集力を強化するために、編集教室に通うことにした。
9月26日に説明会があるようなので、よろしければ一緒に勉強しませんか?