毎日noteに込めた意味など書いてみる
おはようございます。
昨日は、なんとか連続記録を止めたくないばかりに、ワインツーリズムから帰ってきて眠い目を擦り、朦朧とする頭の中で、記事を書きました。
そうまでして止めたくない連続状況とは何なんでしょうね。
止めると、またガタッと止まっちゃいそうで怖いというのが本音です。止めることよりも、止めた後が怖い。
何かを考えて(もしくは何かに触発されて)、その筋道と、事例と、展開を示して、何の結論にもならないことを書いて居るわけですが、これは誰かに何かを読んでもらうためというものではなく、自分のリハビリのようなものです。頭のリハビリというか思考のリハビリ。
ここ10年ほど、目の前の事実及び最大5年くらいの予算の遂行のための画策とそれへの対処ばかりやってきて、仮説、検証、推論などを何処かに置いた生活をしてきたので、頭がすっかり鈍っています。
そこで、なんとか頭の奥底に残って居るであろう(残って居ると期待したい)能力に刺激を与えるために、こんなことを書いているわけです。
序破急とか守破離とか離見の見とか初心忘るるべからずとか、最近、世阿弥の話を読んでいるので、気になるところだらけなわけですが、何かに至る道を、今の初心を踏まえて、手にする為の手慰み。
ちなみに、初心と言うと、最初の時とか、初めの時の心=気持ち、と思いがちですが、世阿弥は、その時、その時に初心はある、と言っています。それは、その時々の自覚であり、芸の未熟さで、人生で今日が一番未熟だと言うことを忘れないと言う意味なのだそうです。
つい人は、人生で今日が一番上手い、と思いがちです。
でも、これまでの人生での到達点が今日のこの演技だと思った瞬間に、その人の成長は止まりそれ以上にはならない。それは、今日が人生で一番年寄りであると思うようなものです。
今日以降も続く人生の中で、今日が一番未熟であり、今日が一番若い。
そう思って、戒め、かつ自分の伸び代にも期待する。
世阿弥はそうは言ってませんが、それが「初心忘るるべからず」の今日的意味のような気がします。
この方の本も参考になります。
自分はもう55も過ぎて、心身を壊して、あとは定年を迎える年まで騙し騙し生きていければいいと思っていた時期があります。
でも、少し心に力が出てきたのか、もう少し長く生きるには、何かを新しく身につけるのは大変だけど、かつての能力を取り戻すことはできるのではないかと考えて、その手始めにnoteの連続を始めました。
その辺りは、この辺で書いたとおり。
そうやって、自分の内面を書いていくうちに、その気になることを期待して、自分を変えていこうと思っているわけです。
読んでいただいたいる方には、もしも、そんな私の文章で、その方なりの何かが見つかれば幸いです。
サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。