愛するということ

the art of loving

愛するということ

 孤立の経験とそこから生じる合一欲求を克服したいと考えているからだ。
大抵の人は愛の問題を、愛するという問題、つまり愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉える。人々はどうすれば愛されるかを考える。
 昔は愛は「結婚へと発展しうる自発的で個人的な体験」ではなく、自分の意思とは関係のないところで決まっていた。結婚した後初めて愛が生まれた。このことによって愛する能力より対象の重要性が増した。
 現代では自分と交換が可能な範囲の商品(相手)に限られる。だからお買い得品を探す。そこで、筆者は愛は、芸術家の仕事のような技術であるという。きちんと理論的に考え、修練を積む必要がある。

2章
 動物と人間の愛は、本能的に環境に適用するためにあるわけではなく、自然環境や外部からの影響なく自然を超越したのだ。
 小さいうちは母がそばにいることによって孤立はしない。しかし成長過程で自分が孤立していることに気づく。孤立感から逃れるために祝祭的興奮状態を作り出す行為である。これを捨てたものは孤独とどう立ち向かうのかというと酒や麻薬、セックスである。 
皆と同じ意見が一致するときは自分の意見の正しさが証明されたと考える。無意識のうちに個人主義ではなく集団同調を選んでしまう。
 現代の平等は一体ではなく同一を意味するのであって、自己が他人の手段であってはならないというカントの定義に反している。よって現代の平等では孤独を癒せない。よって無意識のうちに肩に嵌められた人間は、自分が優位つむにであることを忘れてしまう。

偶像崇拝もマゾの一つであり、主人の指示に従うことで一体となり、その人自身の力も膨れ上がる。サドはその逆で、その人を取り込み自身を膨れ上がらせる。
 成熟した愛は自己を保ったままでの結合であり、能動的な力であるが二人が一つになり、二人であり続けるというパラドックスが起きる。
 人の感情は能動的な感情を行動といい受動的な感情を情熱といった。(スピノザ) 愛は常に能動的であり愛は常に与えるもので溢れ。愛を溜め込む段階から抜け出していないものは与える行為を諦めたり剥ぎ取られたり犠牲にしなければならないと捉える。もらうより与える方が良いという規範は、喜びを味わうより剥奪に耐える方が良いという意味なのだ。貧困が卑屈になるのは与える喜びを奪われるからだ。どんな愛にも基本要素があり配慮(愛するものの生命と成長を積極的に気にかけること)、責任(他人の要求に応じられる用意がある)、尊重(ないと簡単に支配や所有へ)、知(尊重するためにその人を知る必要がある。孤独から抜け出すための基本的欲求は、人間の秘密を知りたいという欲求でもある。子供が解剖したり分解するのも相手の秘密をしり孤独から抜け出したいという欲求の一つである。)である
 そして秘密を知るもう一つの方法が愛であり能動的なものである。

親子の愛
 無条件の母の愛は人間の最も欲する憧れであり大人になってもそれは変わらないが、大人になると満足させるのはとても難しくなる。無条件の愛なのでコントロールはできないが、(口うるさい母親)父親の愛は条件付きの愛でありコントロールしうる。(チャレンジしたい年頃になると父に認められたくなり条件をクリアしようとする。)そして、いずれその二つの良心を自分なりに作り上げて統合させ成熟したことになる。どちらかに偏ると能力の欠如した人間になりうる。

愛の対象
 友愛
母性愛
(幼児に対する愛は母親自身の人生に目的と意味を与える)一つだったものが離れ離れになることであり、いつかは完全な巣立ちを耐え忍ぶことを望まなければならず究極の利他主義能力である。進んで離別しなければならない。
恋愛
 友愛、母性愛には見られない排他性があり、二人は同時に孤立することによって一時的に満足するが実は二人以外のすべてから孤立していることに変わりはなくその一体感は錯覚である。延長にある結婚は、時に生まれ消えていく感情ではなく、意思の行為である。
自己愛
 利己主義と自己愛は全く違うもので、前者は自分を愛せないが故になんとかそこを埋め合わせしようと誤魔化している。また、自己愛は他人への愛と二者一択なものではなく両立し得るものである。非利己主義は同じくらい強烈な自己中心主義が隠れている。非利己的な母親に育てられると美徳という仮面のもと人生への嫌悪を教え込まれる。純粋な自己愛を持った母親に愛されることが最も有意義な愛教育で有る。

神への愛
 思考によって神を知ることでも考えることでもなく、神と一体感を経験する行為。その行為とは正しい生き方と言える。正しい行為が神を知るために捧げられる。これは全ての宗教に通じることである。正しい行いをすることを目的としている。

親への愛と神への愛の類似点としては、子供は十分成熟すると、母や父から自由となり、自分自身のうちに母性原理と不正原理を作り上げる。神への愛では、初めは女神への無力な依存であり、次に不正的な神への服従となる。成熟すると、神の力を外側の力と見なすことはやめ愛と正義の原理を自己へ取り込み神と一つになる。

第3章
愛と現代西洋社会におけるその崩壊
 資本主義、物質主義により社会の作り上げられた決められたものにしか価値を感じられず常に満たされず孤独である。 親愛には協力体制が不可欠で、共通の目的追求のために自分の行動を相手の表明していない欲求ですら合わせるものである。 
 神経症的な愛を生む条件は、恋人たちの双方か、一方が親への愛着を捨てきれず大人になってもそれを愛する人に転移することである。 よく見られるのが、愛の中に幼児的な関係を求める(母親のような無条件の愛を求める)。このタイプの男は、付き合ってしばらくすると無条件ではない愛と気づき失望し、自分は悪くないような正当化した思考に走る。成功した政治家によく見られるが、うまくいかない場合は強い不安感や抑鬱になる。
 もっとひどくなる場合は、母親の強烈で破壊的な愛を受け続けると、強烈に母に依存する愛し方をする。究極は胎内に戻りたいとまで考え出す。つまり人生を終わらせるということで、独立することもできない未熟な大人になる。
 父親に愛着した場合もある。その場合、父を喜ばせることが主題となり大人になったときの上司などの慕う人間により大成功を収めることがある。父や上司に対する愛情が第一で女性は二の次である。 
 愛し合っていない同志の親の場合、子供は不安に苛まれ、マゾであり殻に閉じ籠り気味になる。
 偶像崇拝的な愛の場合、恋人の中に自分を見つけようとするが、期待通りの人はいないので、失望しそのまま見失ってしまうことがある。新たな偶像を探す。この特徴は突然激しい恋に落ちる。
 感傷的な愛もある。映画など芸術には感情移入ができるが、いざ生身となると冷めてしまう。もう一つ過去と未来に生き、現在を無視している夫婦のような愛もある。
 当社のメカニズムによって相手の弱点や欠点にのみ関心を注ぐ愛もある。自分の欠点には気づかず人ばかり強制するので自分自身の成長の役に立ちそうなことは何もしようとしなくなる。夫婦同士ならずこの投射が子供へ行く場合もある。子供に自分の夢を託すような親である。親に資質がないので子どもにも誤った人生を遅らせることになる。
 
愛とは、人間の中心同士の中における経験を互いにすることにより本当の自分自身を知り一体化することである。愛があることを証明するものは、二人の結びつきの深さ、それぞれの生命力と強さが実った時に愛が生まれる。

 現代の生活は原理や信仰を失って不安に怯え前進する以外の目標がない。宗教的な価値からはキッパリ切り離され、現代的な安楽を求める努力に捧げられている。中世は神を真剣に考え救済されることが努力の理由であった。現在は神をビジネスパートナーとして扱っている。

第4章愛の習練
 規律正しく行うこと。習練を規制と捉えず欲するくらいの心意気が大切。東洋は昔から、人間にとって肉体的精神的に良いことは、最終的には心地よいものでなくてはならないと考えられていた。
 集中すること。瞑想などをすると良い。生活の中で集中する訓練を常に行う。
 忍耐。子供が成長を貪欲に欲するかの如く。集中することにも通ずる。

愛する技術習得に最大限の関心を抱くこと。

愛を達成するためにはナルシシズムの克服が必要。自分のうちなるものしか見ることができず外界の現象は有益か危険かの判断のみである。ナルシシズムの対局にあるのが客観性だ。客観性は自分のイメージではないものとして区別する。客観的に考える能力が理性であり、理性の基盤となるのが謙虚さである。

よって愛の技術の習練としては、信じることが必要条件だ。理に叶った信念は知性や感情における生産的な活動に根ざしている。追求するに値する道理にかなった目標として信じること。この信念は自分にたいしての自信が根っこにある。根拠のない信念とは全く違ってくる。また、自分を信じることで自分の中の信念を確認しぶれない人間となる。自分を信じるものは他人に対して誠実になれる。つまり他人に対して約束ができるということだ。そして他人とは人類を信じることでもある。
 信念と権力は決して相いれないものであり、根拠のない信念は亜権力に服従し自分の力を放棄する。権力は常に不安定。しかし、信念を受け入れることは苦痛や失望も受け入れる覚悟が必要だ。

信念と勇気の習練は、自分がどんな時にぶれるかを調べることだ。すると。人は意識の上では愛されないことを恐れているが本当の無意識の中では愛することを恐れているのだ。人を愛することは無保証の中で行動を起こすことであり、自分の信念に全身を委ねることである。
 愛の習練は能動性である。そのため愛以外の全ての面で能動的で生産的でなくてはならない。
つまり社会的な関係を通常の関係とは大きく変えていかなければならない。現在の資本主義では、相互関係は必ず等価で公平が原則である。聖書の汝の如く隣人を愛せというのは、隣人に対し責任を感じ一体と感じることを勧めた言葉であり、相手の権利を尊重することではない。公平と愛は違う。

 そこで、現代社会で愛は成立するのか。それはかなり難しく社会構造の根本的改革が必要であろう。愛の発達を阻害する社会はいつかは滅びる。

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