15年前に書いた『サイボーグ009 超銀河伝説』の原稿


15年前に『グレートメカニック』誌で書いていた、「'80年代アニメ名作劇場」の(おそらく)第1回をアップします。お題は『サイボーグ009 超銀河伝説』。

(長めのリード)
 僕たちの上を通り過ぎて行ったアニメ映画の話をしよう。といっても今更、『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』の話をするわけじゃない。
 ここで取り上げたいのは、ただ通り過ぎていった作品じゃない。通り過ぎて、そのまま行きすぎ、どこかで迷子になってしまった作品だ。そんな作品をこそ取り上げたい。
 でも、そんな迷子の作品こそ僕たちの人生の肥やしになったのだ。誰かが「人生の価値は、どれだけ寄り道したかで決まってくる」と言っていたが、アニメ映画だって同じ。道は王道だけではない。獣道もまた道のうち。袖すり合うも多生の縁。それこそが人生の真実。
 時代は'80年代限定。
 混沌の'70年代と、洗練の'90年代に挟まれた、無法の'80年代。スタッフの高いテンションと、製作側の野心が生み出したアニメの青春期。'80年代こそ、迷子のアニメ映画の黄金時代だった。
 では、そろそろ始めよう。

(本文) 
『サイボーグ009 超銀河伝説』は僕に「世の中はままならぬもの」ということを教えてくれたアニメだ。
 僕と『サイボーグ009』の関係は古い。
 小学校2年生の時、キオスクで祖母にサンデーコミックス(秋田書店)版の第2巻を買ってもらって以来、『009』のヒーロー性とエレジーに魅せられてしまい、一貫してファンなのだ。当時コミックスをそろえただけでなく、父にねだって『サイボーグ009』のドラマ編LP(モノクロ版の第2話と第26話が入ってる)も買ってもらうなど、'79年に『サイボーグ009(新)』が始まる以前に、すでにどっぷりと『009』の世界に浸っていた。
 そして名曲『誰がために』を生んだ新シリーズの終了後、8カ月を経た'80年12月に公開されたのが『超銀河伝説』だ。
 時はまさにアニメブームのまっただ中。
 前年に『銀河鉄道999』をヒットさせた東映動画(現・東映アニメーション)は、'80年に長編を連発。春に『地球へ…』、夏に『ヤマトよ永遠に』、そして冬に『超銀河伝説』を公開している。
 僕は多くの同世代の人々――つまりグレメカ読者――と同様、'79年の傑作(『銀河鉄道999』『機動戦士ガンダム』によって、アニメの虜になりつつあったから、大好きな『009』が劇場作になる以上、期待しなかったといえば嘘になる。でも、不安もあった。
 そして蓋をあけてみると、その不安はどちらかといえばかなり的中していた。
 僕は'81年1月のお正月そうそうに『超銀河伝説』を見た。小学生だった僕は、大画面で『009』を見られたという一点だけでそれなりに満足したのも事実。もしかすると、きっとせっかくの映画だから、最大限楽しんだことにしたかったんじゃないだろうか。むしろ僕に巻き込まれて一緒にこの映画を見る羽目になった両親と妹はどんな気持ちで見ていただろうか、そこが気になる。見終わった後に父に「これ、おもしろかったか?」と尋ねられた時、僕はなんと答えたのか覚えていない……。
 その後、何度かビデオやDVDでこの作品を見直したが、父の「おもしろかったか?」という答えに対する、ふさわしい解答を僕はまだ見つけていない……。むしろ胸に去来するのは「世の中はままならないものだな」ということばかりだ。だから『超銀河伝説』は、先述の通りまさに僕の上を通り過ぎて、そのまま迷子になってしまった映画の代表だ。。
 どうしてそんなことになってしまったのか。実は『超銀河伝説』は、その立ち位置からして非常に微妙な作品なのだ。
 時期的には'79年の新シリーズの劇場版と位置づけられるはずだが、制作会社はサンライズから、東映動画(現・東映アニメーション)に変わっている。それにともない監督(高橋良輔→明比正行)もキャラクターデザイン(芦田豊雄→山口泰弘)も交代。また劇中で語られる004の過去のデティールが、新シリーズで語られたものと異なっていて、それもまた新シリーズと『超銀河伝説』の間にある断絶を端的に現している。
 キャスティングについても、新シリーズそのままではない。ファン・アンケートの結果を踏まえ、基本的に新シリーズを踏襲しながらも、001が千々松幸子から旧シリーズの白石冬美に交代。また008はおそらくキャラクターデザインの変更を踏まえ、戸谷公次から曽我部和行(和恭)に。また、ギルモア博士も富田耕生から旧シリーズの八奈見乗児に戻っている。
 このように『超銀河伝説』は、制作時期は近いにもかかわらず、ストレートに新シリーズを踏襲しているといいづらい。むしろ『超銀河伝説』は、初期劇場版2本、旧シリーズ、新シリーズに続く第4のアニメ化と考えたほうが、その立ち位置の微妙さに納得がいく。
 ではこの第4のアニメ化にあたってのコンセプトはなんだったのか。
 一言でいうと「根強い人気のある009のキャラクター」と「今大人気の宇宙SF」の「合体」がそれだ。ぶっちゃけ「大人気の宇宙SF」のところは『宇宙戦艦ヤ●ト』と読んでもらってかまわない。それぐらい『超銀河伝説』は“ヤ●ト色”が濃い。
 『超銀河伝説』は宇宙の母源といわれる超存在・ボルテックスをめぐるストーリーだ。
 ある日、地球上になぞの飛行物体が飛来する。各地に超常現象を巻き起こした(ここのところの描写は『未知との遭遇』の影響がモロ)この飛行物体は、実はコマダー星の宇宙船イシュメールだった。ギルモア博士に集められたサイボーグ戦士たちは、イシュメールから降りてきたサバと対面する。
 ダガス星の大帝王ゾアから逃れ、地球へやってきたサバはゾアはボルテックスの力を我がものにしようとしていると警告する。
 そして地球でボルテックスのコントロール技術を発見したコズモ博士と001がともにゾアの手下に連れ去れれてしまう。009たちは、二人を救い、地球を守るため、イシュメールに乗り込み、宇宙へと旅だつ。
 『超銀河伝説』の序盤で、もったいないところは、危機の発生→仲間の集結という、「地下帝国<ヨミ>編」以降の黄金パターンをあっさり捨てているところ。たとえ大枠が宇宙SFになっても、それをやるだけでぐっと『009』らしく見えたはずなのに。本作ではカットが替わると全員集合という、非常にあっさりとした処理になっていて、しかもそのわりにはテンポがよくもなっておらず、序盤は全体的にモタモタしているのが、実にもったいない。
 一方、イシュメールの発進シーンは序盤の山場。もろに『さらば宇宙戦艦ヤ●ト 愛の戦士たち』風なのだが、町田義人の挿入歌「さらばとは言わない」が流れる中、イシュメールが一コマ打ちで波をけたてて飛び立っていく絵は、なかなかの出来映えだ。
 イシュメールはナスカの地上絵を元にしたデザイン。個性的ではあるがデティールに乏しく、スケール感のわからない面倒な形状なのだが、スケール感のなさをのぞけば、ここではかなりかっこよく見えている。特に海面から飛び上がる瞬間、船尾が水面から離れた後、ふたたび一瞬船尾が海面に触れ、波を切り裂いてそのまま飛び上がっていくカットは、揚力によって持ち上げられている感じがして心地よい。
 『ヤ●ト』っぽいのは、宇宙へ飛び出していく展開やメカ描写だけではない。
 たとえば本作の最大のウリであった、004の死。004が敵のガデッサ要塞星を自らの犠牲により破壊する展開なども『009』というよりは、『さらば宇宙戦艦ヤ●ト』のノリで受け止めたほうが納得できる。……この場合、004の広島型原爆一つで消滅してしまう要塞星の脆弱さには突っ込みますまい。
 また009の言動が、かなり古●進っぽいところも『ヤマト』っぽく見える一因だ。
 今回ギルモア博士は地球に居残り、001も不在ということで、009がサイボーグ戦士たちのリーダー要素を全面的に負う構図になってることも大きいだろう。宇宙に出て以降、全員に命令を出すだけでは飽きたらず、時に007に「命令だ!」と一喝する場面まで出てきたりする。
 クライマックスでも同様だ。
 004の死に際しては「ハインリッヒの死を無駄にするな!」と宣言。さらに、このままゾアを追うと、地球に帰れなくなるという時も「帰れなくていい/僕たちは最初からそのつもりで来たんじゃないか」と発言。おまけに続けて003が「そうよ。私たちには帰りの船などいらないわ」と同調する。このやりとりなんか、古●進と森●だと思って聞いたほうが違和感がない。
 古●進っぽくなったからなのかどうなのかは不明だが、本作の009は一度も加速装置を使わない。002は空を飛び、004は原爆を披露する。使いづらそうな008の潜水能力についてもちゃんと2回登場させている。にもかかわらず、加速装置は登場しない。このあたりの微妙な匙加減が、そのまま『超銀河伝説』の不思議な味わいに通じている。
 こういう『ヤ●ト』っぽさこそ、'80年の当時アニメに吹いていた“風”の一つであったのは間違いない。そして『超銀河伝説』は、その“風”に吹かれてクルクルと迷走してしまったのだ、きっと。
 さて『超銀河伝説』を語るならば、まさに超伝説的なクライマックスとエンディングにも触れねばならない。
 004に要塞を爆破された後、ゾアはボルテックスへと向かう。009たちも不帰の覚悟でゾアを追い、009もまたゾアとともにボルテックスに接触する。
 ここはクライマックス中のクライマックスなのだが、驚くべきことに、ゾアと009たちは対決することなく映画が終わる。ボルテックスでなにが起きたかは、奇跡的に帰還してきた009のセリフで語られるのみ。ゾアは自らの欲望のままにボルテックスを吸収しようとし、自滅した、とゾアの死はイメージカット(回想?)とセリフで済まされるのだ。一応後で、ボルテックスと一体化した009がゾアの消滅を願ったから消滅した、という説明も出てくるが、いずれにせよ、セリフだけで説明されても盛り上がらないことおびただしい。
 おまけにボルテックスの力で帰れないはずだった地球に一瞬のうちに帰還しているし、死んでしまった004は生身の姿で蘇っているし、最後の最後で強引にハッピーエンド風に物語を着地させて、009と003の甘い睦言で映画は終わってしまうのだった。
 『超銀河伝説』を手短に評するなら、、序盤モタモタ、中盤グダグダ(紙幅の都合で009に女の武器で迫りすぎるゲストヒロイン・タマラについて語れないのが残念!)、終盤アレアレということになるだろうか。
 そんな『超銀河伝説』だが、大作映画とはどういう絵作りをすればいいか、という点についてはかなり工夫している。たとえば背景美術は、それまでの作品よりも細かく描き込まれていて、緻密な世界観を描き出そうしている。また宇宙を青ではなく黒で描いているのも、本作の特徴の一つだ。撮影も透過光を中心に、凝った仕事をしている。たとえば敵幹部ガロの立体映像が消える時の光、宇宙船イシュメール号の内部の虹色の揺らめき、海の水面のきらめき、さらには『2001年宇宙の旅』の向こうを張ったようなスターメイズとボルテックスの描写。さまざまな色と形状の光の饗宴が画面を非常にリッチに見せている。
 つまり大作映画をアニメで作ろうとはしたけれど、手本になるアニメ映画は『ヤ●ト』しか存在せず、そのような状況の中で、技術面も含めてなんとか「映画」らしくしようとした努力の結果が『超銀河伝説』なのだ。
 その努力の結果、『超銀河伝説』は『009』からずいぶんとズレてしまい、おまけに努力の成果はあまり実らなかったのだけれど。
 「世の中はままならぬもの」。今回改めて『超銀河伝説』を見直して、僕はやっぱり昔と同じ感想を持った。

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