『地球外少年少女』の原稿

『地球外少年少女』が22年に劇場公開された際のパンフレットに寄稿した原稿です。note掲載にあたって、細かなところを修正しました。

(タイトル)
“未来”を“現在”として生きる少年少女

(本文)
 町中で子供を見かけると「この子供たちは、自分が見られない“未来”を見るんだなぁ」と思う。
 “未来”というのは“自分が死んだ後の世界”のことだ。自分が生きている限り、そこは常に“現在”だ。そして人は“現在”をまだ見ぬ“未来”へと拡張しながら生きている。だから、人は決して“未来”へと追いつくことはできない。私たちにとって“未来”を見るのはいつも子供で、でもその“未来”は子供たちにとってはただの“現在”にしかすぎない。
 『地球外少年少女』を見て、そんなことを思ったのは、ここに描かれているのはまさに、“未来”を“現在”として生きている子供たちの姿だったからだ。
 本作の大きな柱は2つある。ひとつは「宇宙」で、もうひとつが「AI」。主人公たちににとって宇宙は“現在”を現すものであり、AIは“未来”にまつわる要素として扱われている。
 物語の舞台は、日本の商業宇宙ステーション・“あんしん”。キャンペーンに当選した、美衣奈、博士、大洋という3人の子供が地球から“あんしん”にやってくる。一方、“あんしん”には月で生まれた子供、登矢と心葉が暮らしていた。衛星軌道上で邂逅する地球と月の子供たち。しかし彼らが出会った直後、彗星の破片が“あんしん”に衝突してしまう。生き延びるために協力して安全な区域を目指す子供たち。
 序盤で描かれる“宇宙サバイバルもの”の展開の中で、この子供たちの“現在”の姿が描き出される。
 高度300Kmほどを周回する“あんしん”から見た地球の風景。低重力空間での身のこなし(低重力描写は実写には実写の、アニメにはアニメの難しさがあり、様々な映像作品でなかなか丁寧に描かれることがないが、本作は冒頭から非常に丁寧に描写している)。宇宙食や簡易宇宙服、緊急時のシェルターといった“日用品”の描写。月で生まれた登矢たちにとってこれらはごくごく日常的なものだ。本作の序盤は、ISSに民間人が乗り込むニュースが流れてくる現在の延長線上にある、「宇宙で生活すること」をリアリティをもって実感することができる内容となっている。ここで展開する風景は、観客にとっては“未来”でも、登矢たちにとっては珍しくもない“現在”の風景に過ぎないのだ。
 これだけでも宇宙SFとして魅力的な出来栄えだが、本作はそこにAIを加えることで、さらに物語のスケールを大きくしている。
 AIは、物語の序盤から世界を構築する重要な要素として扱われ、登矢の使うドローン・ダッキーや、“あんしん”を管理する“トゥエルブ”として登場している。だが、この時点でのAI描写はあくまで「世界観の一部」だ。これは“現在”の範囲である。“未来”とAIの関係が明確になるのが、物語も終盤になってからだ。
 そこでカギを握るのは、“セブン”というAIだ。“セブン”は、かつて世界最高知能を誇ったものの、知能崩壊を起こし、殺処分されたといういわくつきのAI。登矢と心葉の頭の中には、このセブンが設計したインプラントが入っている。このインプラントは、月で生まれた子供を永らえさせるために作られたもので、思春期になったら自己分解するはずだったが、今も2人の頭の中で溶け残ってしまっている。登矢にはまだ異変は起きていないが。この不具合によって、心葉はもう残り時間が少ないことが示唆されている。心葉は“現在”を“未来”へと拡張することがもう許されそうにないのだ。
 それに抗おうとする登矢の決断。AIは人類にとってどのような意味を持つのかという問い。この2つが交錯するクライマックスを経て、物語は(心葉と登矢の)“現在”にすることができないはずだった“未来”が、“現在”となった地球の様子が描かれるエピローグへと至る。

 登矢の決断とAIの存在意義については、具体的にクライマックスを見ていただくとして、ここで重要なのは「知能とは何か」という“未来”に属する問いが、“「宇宙開発」とうう“現在”の状況と深いところで結びついているという点だ。
 人間はなぜ知能を獲得したのか。目に見える世界が広くなると、それまで見えていたものが、世界の実態そのものに対する「近似値」「影」「部分集合」etcであったことが見えてくる。人類はその知能の果てに、自らが生まれた環境である「地球」の外に出ることに成功した。そのとき、地球は世界の部分集合となったのだ。それを認識できる知能の具体的な現れこそが、宇宙開発なのだ。そして、知能によって「地球」を相対化する視線を手に入れれたのは人類だけである。
 ではもっと高い知能を人間が手に入れたら、どのような世界が見られるようになるのか。そしてそのような知能を手に入れられるのは人間だけなのか……。本作が「宇宙開発」と「AI」の二本立てでなくてはならなかった理由がここにある。こうして考えてみると、本作の「宇宙」と「AI」という道具立てが、、『2001年 宇宙の旅』と近いことも決して偶然ではないと気付かされる。

 “未来”に追いつくことはできない。でも“未来”を夢見て、選択を重ね“現在”を拡張していくことはできる。本作が見果てぬ“未来”を夢見る様々な人に届きますように。

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