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漫才論| ¹¹⁷結局"うまい"漫才師が生き残る可能性が高い❓

「笑い」というのは,「発想」「うまさ」「ベタ」の何を重視するのかという"好み"の問題であり,ファッションの流行のように「"作られたもの"という側面もある」という点については,この2つの記事で書きました

「流行」というのはなんでも,当然ですが「流行はやすたり」があるもので,時代の流れに大きく左右される「不確か」なものです。今年流行った漫才の中には,1年後2年後には「古い」と言われてしまうものもあるかもしれません

一方,「好み」というのは,「流行」の影響を受けることはあるものの,比較的「確か」なものと言えます。「好み」も変化することはありますが,「流行り廃り」のような"瞬間的な変化"ではないからです

この点を踏まえて,「結局生き残るのはどんな漫才師なのか」について考えてみました


「発想」と「ベタ」は紙一重?

こちらの「漫才調査」をご覧ください

「『発想+うまさ』を重視するタイプ」が1位になっていますが,これは,「『発想』と『うまさ』を兼ね備えた漫才師は生き残る可能性が高い」ということを意味していると言っていいと思います

ただ,「発想」というのは,今は「新しい」と思えるものでも,慣れてくれば特に新しいものではなくなりますし,いずれはそれが「ベタ」なもの(「古典」のようなもの)になることもあります。また,尖った「発想」をどこまでも突き詰めていくと,「『ベタ』なものが尖っている」と感じる領域に達することもあります。ですからたぶん,「発想」と「ベタ」は紙一重です

芸人が第一に追求すべきなのは「芸」

ですから,生き残るために追求すべきなのは「うまさ」だと思います。しゃべりの「うまさ」や掛け合いの「うまさ」,つまり「芸」です。「芸人が第一に追求すべきなのは『芸』」というのは本来当然のことですが,M-1の影響で「とにかくおもしろい漫才」を追求する芸人が増え,「芸」を追求する芸人が減ってしまったという印象があります

今,漫才師としての確かな「腕」を磨いておけば,今後どんな漫才が流行っても対応できます。ベタなネタも,尖ったネタもできます。センスのいいネタを自分たちでは作れなくても,作家がいます。必要なのは,人が書いたネタでも自分たちのものにできる確かな「腕」です

自分たちでネタを作るのが主流になったことで,「腕」がなくても「センス」があれば認められる時代になりましたが,「センス」や「発想」だけで勝負するネタにもいずれ飽き,「物足りない」と感じる時期がくるはずです。その次にくるのは,「発想+うまさ」の時代のような気がします。「発想+うまさ」という"好み"はおそらく普遍です。そのときまでに「腕」を磨いておけば,その時代にウケる「いいネタ」が自分たちのところに集まってくるような漫才師になれるかもしれません

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みんなで作る漫才の教科書とは,テーマ別に分類した「漫才論」にみなさんから「質問」「意見」「反論」などをいただいて,それに答えるという形式で教科書を作っていこうというプロジェクトです

THE MANZAI magazine
❶「自分たちにしかできない漫才スタイル」を確立する方法 ❷しゃべくり漫才のうまさは「相槌」で決まる ❸「漫才台本の書き方」と「オチのつけ方」 ➍ボケやツッコミってどのようにして思いつくものなの? ❺「言い訳-関東芸人はなぜM-1で勝てないのか-」は"現代漫才論"ではない-ナイツ塙さんが何を「言い訳」しているのかが分かれば,関東芸人がしゃべくり漫才でM-1王者になる道が見えてくる- ❻漫才詩集「38」

フィクション漫才『煮豆🌱』-いとこい師匠のテンポで-
作: 藤澤俊輔  出演: おせつときょうた

あらゆるオチを誰よりも先に小噺化するプロジェクト『令和醒睡笑』過去の創作小噺を何回も何回も回すと"古典小噺"になる・・・はず・・・【小噺はフリー台本】