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漫才論| ²¹「いじめ」と「いじり」はどう違うの❓

「愛があるのが『いじり』で,愛がないのが『いじめ』」とよく言います。この説明には,納得できる部分もありますが,疑問も残ります

自分では「これは"愛"だ」と思ってやっていても,実は「相手が嫌がっていた」というケースもありますし,みんな楽しんでいるんだから「これは"愛"だ」と思っていても,楽しんでいる人だけでなく,中には「不快に思っている人もいる」というケースもあります

逆に,まわりからするといじめられているように見えても,本人はまったく「いじめられている」と感じていない場合は,「いじめ」ではないのかという疑問も残ります

その人の「感じ方」を基準にしてしまうと,物事の本質が見えなくなってしまいます。この問題の「本質」は,一体どこにあるのでしょうか?

自尊心を満たすための手段

本質は,「自尊心」や「自己肯定感」にあるのではないかと思います。「いじめる人」というのは,相手を見下すことによって,「自分のほうが高い位置にいる」という優越感を抱き,それで自尊心を満たしているのだと思います

ただ,人を見下すというのは「悪いこと」とされていますから,「そんなことをするのは良くない」という自らの良心の声や,まわりの人の目もあります。そこで,これを正当化する手段として「笑い」を利用します

例えば,「そんなの冗談に決まってるだろ。ノリ悪いな〜」などと言う人がいますが,これは,相手が傷ついた反応をしたときに言う言葉です。明らかに相手は嫌がっているのに,「冗談なんだから。お笑いなんだから。当然受け入れるべきだ」と主張します。これは正当化です。人が嫌がることをしていいはずがないからです

「いじめる人」というのは,「なんとかして優越感を得たい。どうしても自尊心を満たしたい」と,躍起になっているような印象を受けます

人をいじめて心から笑える人などいない

一方,自尊心や自己肯定感が満たされている人は,自分で自分を高める必要など感じませんし,人を見下す必要も感じません。人を傷つけてまで「笑いをとりたい」とは思いませんし,むしろ,人を見下したり,バカにしたりするようなことは不快に感じます

「いじめる人」も,本当はそんなことはしたくないのではないかと思います。人をいじめて心から笑える人などいないと思います。「こんなことをしたって心は晴れない」と薄々気づいていると思います。それでも,自尊心が満たされない状態に耐えきれず,なんとかして優越感を得ようとして人をいじめるのではないでしょうか。そして,この方法で継続的に自尊心を満たすためには正当化するしかないので,「これは冗談だ。お笑いだ」と言い聞かせているのではないでしょうか

「いじめ」と「いじり」の違い

このように,自分のことを中心に考えていると「いじめ」や「いじめのようなもの」になってしまい,本当に相手のことを考えることができたときにはじめていい意味で「いじる」ことができるのだと思います

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