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藤林檎の目標

こないだ初めてインスタライブした時にもちょっと話したんだけどね。どこから話そう…。

去年の12月18日。ほとんど事故のように突然バーチャルの身体で産まれ直してしまった私が最初に持っていたプロフィールは、「バーチャルファッションモデルの青空フミちゃんと一緒に暮らしている」ということだけだった。

あとはVRoidや、バーチャル活動やフミちゃんの活動について理解したいという漠然とした目的だけがあって…。

フミちゃんやフミちゃんの周りのお友達からバーチャルファッションという概念を学び。

フミちゃんの自作アプリでお写真を撮ったりBOOTHで購入したお洋服を着るようになったり。気付けばいつの間にかバーチャル空間を抜け出してお出かけようになって。

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ファッションや撮影や自撮りを楽しんでいる内に、お写真撮られるのもファッションも好きだけど全然タレント志望じゃないからファッショニスタって名乗っちゃお!!何の素養もないけど!!名乗っちゃうことから始めよう!って名乗るようになって。

ファッショニスタという肩書がふさわしい人間になるぞと自分を叩きあげようとし始めて、はたと改めて気付いたのが自分の中にずっとある、生身の女の子達への深い愛情だった。

女の子達に救われ続ける人生だったのね。好きになるアーティスト、歌手、アイドル、コンカフェのキャストさん。暗闇に落ちてしまいそうな時に私を見つけてくれた光は、何故だかいつも女の子が生きて表現をする姿だった。

返しきれないほどのたくさんの気持ちや生きる気力をもらって、私は一体何を返せるだろう、私に一体何が出来るだろうずっと考えていた。

彼女達のことが好きだからこそ、生身の女の子が生身であることに苦しんでいる時ずっと辛かった。加齢や容貌、パーツの造りやバランスのことだったり。自撮りや動画撮影を楽しむ女の子の容姿を中傷する心無い言葉がカジュアルに飛び交いナチュラルに人の心を殺し続けるインターネットの化け物達への憎しみが絶えずある。お客さんやSNSのフォロワーが増えない原因を容姿にあると感じて病む女の子に対して、年収1億イケメン男子じゃない私の「でも私は好きだよ。可愛いよ」なんて言葉1円の価値もありますか?

もちろん私が推してきたのは、私が好きと言ったらそれだけで十分うれしいって答えてくれるような子達ばっかりだったけど、私ごときの「好きだよ」にどれだけ価値があるだろう、言葉だけじゃない何かをもっとってずっと考えてた。

でもバーチャルで生まれ直した私なら「生身がしんどい時は、別に生身じゃなくてもいいよ」と言える、そういう愛をあげられるかもしれないということに気付いた。
でもそのためにはまず、そういう女の子達にも届くぐらい私が人気にならなきゃいけない。
人気者をやるのが向いてるのは絶対私じゃなくて他に誰かいるはずだけど、でも「生身がしんどい時は別に生身じゃなくてもいいよってことを説得力を持った言葉で言いたい」ってことを私ほど強く思いながら活動している人が私には見つけられなかった。だから少なくとも今は私がそれを目指すという気持ちです。
ネットに晒す顔は必ずしも生身の自分の顔じゃなくても良いという選択肢が当たり前になって、インスタのバーチャル関係のタグ以外にも当たり前にVアバターの顔がいるのが当たり前の風景になったら、もう私は別に人気者を目指さなくていい。

なりたい顔と姿で着たい服を着た自分をネット上の自分として扱っても良いと言う私の声が届くまではやります