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魔法の世紀を読んで

魔法の世紀 著:落合陽一 PLANTES

研究者とメディアアーティストの2足のわらじをはく、落合さんの考え方をまとめた本です。仕事で土木技術者をしながら、地元でまちづくりをしている自分となんかダブるな~と勝手に親近感を抱きながら読みました。
アウトプットの出力がコロニーレーザーとビームスプレーガンほど違いますが・・・。

産業革命以降の技術と芸術が分岐した世の中で、技術の発達よりメディアの「可搬性」が高まり、その結果として20世紀は『映像の世紀』となりました。映像の世紀の中で生まれたコンピュータは生まれた当時に描いた世界は、コンピュータと人間とが共生する世の中でしたが、その時代に与えられたリソースでは実現不可能でした。

実現不可能だった人とコンピュータの共生は、技術の発展により共生可能な環境となってきました。ただ、人はコンピュータとの共生方法をまだ獲得していないため、アートの力で探していくコトになるのかなと思いました。

科学によってこれまで説明できなかったことが説明できるようになり、世の中は『脱魔術化』が進みました、でも社会が複雑になり、コンピュータの能力が発達し、人間が理解できない範囲でコンピュータの理解が進んだ時、世の中は『再魔術化』を果たすと落合さんは言っていると思います。

本の中で落合さんは人間をミトコンドリアに例えていました。元来独立した生物だったミトコンドリアは自分が生きながら得るために、真核生物との共存を選んだそうです。人間もコンピュータとの共生によりミトコンドリアのような生き方をするのではないかと書いてありました。

科学技術の発展は人間が『人権』を獲得したことによるものと僕は理解しています。人権により人間中心主義が生まれた世の中で僕たちは生きています。学生の時、「いじめられる側」にいた僕(いじめられていると思っていた僕)はどちらかと言うと人間中心主義に対して若干懐疑的に思っています。人間中心主義は優生学や社会ダーウィニズムと親和性があると思っていて、その結果として人を優れているか劣っているかで判断しやすい世の中になっていると思います。

話は飛びますが、物理学者の北川卓也さんが理解することの定義についてこんな風におっしゃってました。
①数学的理解・・・分類する
②物理的理解・・・予測する
③工学的理解・・・再現する

コンピュータが膨大な計算をこなし、人が理解できない現象を分類・予測・再現したとき、人はコンピュータに対してどんな感情を抱くのでしょうか?

コンピュータが発達し、人が人であるべきコトをあきらめたとき、人はより人らしくなるように思えます。何となくそれが落合さんのいう『デジタルネイチャー』なのかと思いました。

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